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同和教育とは(4) 「差別意識」を見直す(2)

「差別は人間関係の病いである」と言ったのは、菅孝行氏である。

ここ数日、森口健司氏よりもらった徳島県板野中学校の同和教育実践集『峠を越えて』の創刊号からの数冊と、森口氏自身の実践集『よろこび』(創刊~3号)を読み直している。
一人の生徒の発言に呼応して次々と発言していく生徒、胸の奥に仕舞い込んでいた「思い」が溢れ出す。それを自分の問題に引き寄せて、友の言葉に真摯に応えようと自らの胸の内を語り出す。そこには他人事の意識はない。自らの言葉で自らの問題や思いを語っていく。飾り立てたきれいごとなど通用しない真剣さが場に満ちている。発言だけでなく、言葉と言葉の間、わずかの沈黙の時でさえ、生徒たち一人一人の心の声や思考の葛藤が聞こえてくる。

自らの<差別意識>と格闘している。友の言葉が自らの<差別感情>を洗い出していく。
万巻の書物よりも人の言葉は重く伝わってくる。


「主題設定の理由」に込めて自らの<差別意識>を吐露する教師の言葉も生きている。一人の人間として自らの半生を語り、家族を語り、差別への思いを語っていく。

小学生だった頃、降りだした雨に父がわざわざ学校へ傘を届けに来てくれた。その父に気づいていながら、友達をふざけながら追いかけるまねをして、傘を持って私を探す父から隠れようとしたことがあった。下校に困らないようにと、忙しい農作業をそのままにして急いで来てくれた父は、よれよれのほころびかけの作業着姿、この日は特にみすぼらしく見えた。
「今の人、誰のお父さん?」とか、「きたない親父だな」などと誰も言わなかった。そう思ったのは私自身であった。
その後もずっと私は、「家の人は百姓か。」と言われるのがいやだった。「おうちは何をしているの。」と尋ねられるのをおそれていた。「百姓」という言葉の持つ劣悪なイメージがいやだった。
なぜこんな意識を持つようになったのだろう。小学生のころから。

『峠を越えて』(徳島県板野中学校)

『峠を越えて』に収録されている山口智恵子教諭の「思いを語ることを通して」の一文である。彼女は自らが抱えていた「後ろめたさ」を正直に書いていく。それは「父への想い」であり、「差別意識」であり、人に知られること恥ずかしいと「回避していた」自分自身をさらけ出していく。

彼女の文章を初めて読んだときも、幾度となく読み返したときも、そして今も、私は涙が流れる。そうなのだ。私もまた彼女と同じく父親の仕事を恥じて隠していた時期があった。ゴミ取りの息子と言われはしないかと恐れていた。

中学校の時、全国大会に出場するために東京に行った際、父は両肩にバックを襷掛けのように担いで、初めての新幹線に乗り、東京についてきてくれた。チームの親と一緒にいる親の姿を見るのが、本心は嬉しくてたまらないのに、目を逸らす自分がいた。

私が父親のこと、父への想いを語ることができたのは、同和教育に出会ったからである。自らの差別意識を洗い流してくれた同和教育と、それを通して出会ったかけがえのない人たちによって父親への想いを語ることができるようになった。その父も昨年4月に苦労と病気の人生に幕を下ろした。

今も許せないのは、私の「講演録」から父について語った部分を悪意で曲解・歪曲し、それを「ネタ」に揶揄・愚弄した人物である。私の本心を独断と偏見で改竄し、職業差別者に仕立て上げた福島県の隠退牧師吉田向学氏である。当時は山口県のキリスト教会の牧師であった。
今も彼のブログには私と父への誹謗中傷・罵詈雑言が掲載されている。部落史に関する主義主張の違いなどは構わないが、一面識もない私に対して、臆測だけで、言ってもいないことをさも私の発言であるかのように自分に都合のよい「引用」に見せかける虚偽を行い、私が思ってもいない父への気持ちさえも臆測でしかないにも関わらず断定して書く。明らかに名誉毀損である。

部落差別の解消をめざすと公言する人物に彼のような人間もいるのだと思っている。(詳しい反論は拙ブログ『時分の花を咲かそう』に書いているので、これ以上は書かないし、無意味なことでしかないと思っている)

山口智恵子教諭は、続けて次のように自己分析を行う。

それは、社会に渦巻く差別があったからである。部落差別だけでない。学歴差別、職業差別、貧富による差別、身体の不自由な人に対する差別など。父の職業を恥じるように植え付けられてしまった過程にはこういった社会の差別性が反映しているのだ。
このことに対し怒りを持てば、私の取り組みにも、ごまかしなどなくもっと前向きで厳しいものになっていたはずである。
これらの差別、社会の差別性に気づかない限り、差別を自分に関わってくる問題と捉えられない。自分の周りにどういう差別があってどういうふうにそれを明らかにしていくか。これこそが自分の問題として同和問題を捉えるということなのである。
自分が差別心の塊であることを認識すると同時に、差別社会に立たされている自分に気づくことが第一歩なのである。
差別は決して被差別部落だけの問題ではない。社会には種々の差別があり、下見て暮らせという現実がある。差別が息づいている社会構造がある。周りのこういう差別に気づいていないから自分のものとして捉えられていないのである。

同上

板野中学校の全体学習で何よりも驚くのは、授業者である教師の書く「主題設定の理由」である。『峠を越えて』に収録されている山口智恵子教諭の「私の目を見て!」(土方鉄)の全体学習の指導案はA4版12ページに及ぶ。今までの授業を総括しながら、生徒の感想や発言、自らの思い、教材に寄せる願い、教材観や指導観が綴られている。

他の教師の「主題設定の理由」も同じである。形式に沿った「指導案」ではない。名前を出さなければわからないような、誰もが形式に沿って書くことができるものではない。
私も、かつて同様の「指導案」を書いたことがあるが、県教委に忖度した校長に却下され、同僚からは呆れ果てられた。そして「今まで通りでいい」の一言であった。

『峠を越えて』に収録されている<1993年度同和教育の実践を振り返って ~研究同人の思い~>の中に、同和教育担当の阿部憲作教諭が書いた「人間として生きる」がある。18ページにも及ぶ「思い」が綴られている。その最後の一文である。

生徒が変わっていくにつれ、教師も変わっていく。いつも真剣そのものである。教師の人間解放への思いは、学習指導案にびっしりと綴られていった。何度も何度も自分の思いを確かめ指導案に綴り、それをもとに教師間で時間をかけて語り合う。ある教師は、自分の生い立ちや部落解放への思いを50ページにも著す。すべての教師が部落差別とどう出会い、どうかかわって生きてきたかを書き綴っている。自分と部落問題のかかわりが明確にできれば、その思いは必ず伝わると信じているからだ。授業記録にしてもそうである。自分に何ができると考えた時、夢中で授業記録を書き下ろす。指が腱鞘炎になるぐらいワープロをひたすら打ち続ける。みんなが部落解放の熱をもち続けてきた。

同上

<差別解消の主体者>という表現も森口健司氏や板野中学校で教えられた。彼らがめざす方向性を阿部憲作教諭の次の一文が端的に表現している。

…ある日の全体学習で、この熱はどこから生まれてくるのだろうという問いかけがあった。誰かに燃やされてはいないのだろうか。人のために燃えようとしているだけではないだろうか。いや違う。誰もが自分自身のためだと語った。
…「自ら燃え続ける、自ら変わっていく自分」に変身していった生徒は、自分自身が差別から解放される喜びをつかみ、また誰かにその喜びを伝えていくだろう。

同上

これが<差別解消の主体者>という意味である。
福島県の隠退牧師吉田向学氏は、私の「差別解消の主体者を育てる」を「生徒を部落の子にしようとしている」という趣旨で批判したが、全くの的外れであることがわかるだろう。<主体者>という表現や<被差別(の現実)に学ぶ>の意味を歪曲・曲解しているのだが、彼にはそのことが理解できないらしい。同和教育を偏向教育としか受け取れない以上、先入観と偏見でしか理解できないのも仕方ないのかもしれない。

<差別解消の主体者>とは、部落の子も部落外の子も、「差別」という理不尽で不条理な存在をこの世界から消滅(解消)させるために、自らが<主体>的になって(主体者として)取り組んでいくという意味である。そのためには、まず自らの内面にある<差別意識>を洗い流し、他者の「語り」に真摯に耳を傾け、認め合うことで、また自らを見つめていく、そのような営みが同和教育である。

他者を「敵」としか認識できない人間、被害者意識に苛まれ続けて意固地になり、独善的にしか物事を捉えられない孤立した人間には理解不能なのだろう。自分を変えることができない人間は不幸であると心底から思う。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。