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部落史ノート(7) 被差別民の呼称(2)

前回に見たように、網野は『天狗草紙』の「穢多」は「仏の敵である天狗」を退治する「天狗にとっておそろしきもの」であり、「賤民」ではなかったという。しかし、『塵袋』では「イキ者ヲ殺テウルエタ躰ノ悪人」と書かれている。この両者は矛盾するのだろうか。
網野善彦は次のように述べている。

この段階ではまだそうした差別が社会的に固定した状態には決してなっていなかったと考えるべきだと思います。それは同じころ「悪人」こそ仏の心に近いとする親鸞の教えや、ケガレたものも救われるとして非人たちの信頼を集めた一遍、さらに自ら「賤民」の子といった日蓮のような宗教家の思想が強力な社会的影響を持ちはじめていることからも明らかといえます。
「悪」も決して道徳的な「善悪」の「悪」というよりも、むしろ人の制御できない強大な力そのものを指していました。ですから、この時代の「悪党」は決して単純な「わるもの」ではなかったのです。

言葉・語句(用語)の意味内容は時代によって異なる場合が多い。「悪」を「人の力を超えた畏怖すべき事態」と考えるならば、「ケガレ」もまた「悪」であり、「穢多」は「悪人」と解釈できる。
貨幣経済が地方にも進展していき、商工業が発展するにともなって人々の交易・交流・移動の範囲が拡がり、宗教や思想が人々の生き方やあり方、社会観に大きな影響をあたえるようになると、<聖>と<穢>、<貴>と<賤>の境界が分離し始めていく。やがて15世紀になると、賤視の対象が広がっていき、差別される人々が明確になっていく。それは人々がそれらの人々をどのように見ていたかでもある。その理由こそが問題なのだが…。

例えば、茶摘みをする女性は祗園社では「宮籠」と呼ばれ、犬神人とも深い関わりを持つ巫女もその中にいました。また、「一服一銭」と呼ばれる茶売りは、犬神人と同じように覆面をした人として『七十一番職人歌合』に描かれています。茶摘みや茶売りが非人と不可分の関係にあったことは、室町時代には史料の上ではっきり確認できるようになります。
…お茶を点てる時に使う茶筅を売っていたのは、「鉢叩」という時衆(江戸時代に入ると「衆」が「宗」に代わり、「時宗」が宗派の名として確定される。一遍上人を祖とする僧尼衆を表すとき、江戸時代より前は「時衆」、以降は「時宗」と呼ぶ)と関わりのある遍歴の僧侶でした。瓢箪や鉢を叩きながら諸国を遍歴して教えを広めていた僧形の人が、茶筅を売り歩いていたのです。
華についても、菊の花作りに携わったのは非人・河原者の流れを汲む人々だったことがわかっています。
また、室町時代には、河原者は庭園作りの仕事にも携わるようになります。牛馬の皮を扱うだけでなく、木や石を動かすことも河原者の仕事でしたが、それを起点として庭に木を植えたり、石組みをするなどの造園をするようになり、河原者は「御庭者」とも呼ばれるようになります。
15世紀には、このように茶や華を扱ったり、庭園をつくる人々、さらに猿楽の芸能に携わる人々も、差別され賤視される一面を持つようになっています…。

網野によれば、「遊女」もまた賤視の対象となっていく。「朝廷の官司に統轄され、天皇や貴族とも芸能を通じて関わっていた遊女の社会的地位が低下し、次第に賤視されるようになっていった」という。その理由として、「ケガレた生業に従事」していたからで、セックスもケガレと関連づけられたからだとする。「生理に伴う血の汚れとも結びつき、やがて女性に対する社会的な差別につながっていく」と述べている。

鎌倉幕府のときも朝廷や貴族との関係はあり、今日の文化や風習は伝わっていただろうが、やはり室町幕府は京都にあったことから影響は大きく、武家の公家化が進んだことで、それまで公家の生活や文化の中で培われてきた生活様式や風習(しきたり)、儀礼的な考えなどが、武家の中に深く入り込んでいったことだろう。その中には、ケガレ観や触穢思想などもあり、武家も染まっていったと考えられる。


「江戸時代になると、被差別民は身分として固定化されていく」と網野は言う。そして「将軍綱吉の時代に有名な『生類憐みの令』や、血や死のケガレを排除する細かい規定をもった『服忌令』などの法令が出されますが、それらの法を通じてケガレを忌避する感覚」が東日本に持ち込まれたことなどから推察して、「差別が固定化されたのは元禄の頃と考え」る。
また、「穢多」「非人」の呼称は幕府によって固定された被差別民に用いられたが、「長い歴史をもった呼称の方が西日本では広く用いられ」たと言う。
被差別民が各地でどのように呼ばれていたかを網野の文章から引用しておく。

「皮多」はまさしく皮を扱う人々の意味であり、畿内を中心に広い範囲で用いられました。また、「鉢屋」や「茶筅」という呼称が、茶筅を売り歩いていた鉢叩と関わりを持っていることは間違いないところで、「茶筅」は中国・四国地方に見出され、「鉢屋」は山陰を中心に用いられた呼称です。
その他、加賀・能登・越中には「藤内」という呼称がありますが、なぜ「藤内」というのかは明確にはわかっていません。また出羽であh被差別民が「らく」と呼ばれていますが、これは「公界」が「苦界」に転訛したように、「楽」が転訛した呼称と考えられます。
…非人の「長吏」の語が関東を中心に被差別民の呼称に転訛していますが、そのほか「野守」「林守」などと呼ばれる被差別民もいたことがわかっています。

なぜ被差別民の呼称が各地によってさまざまであるかは、被差別民の歴史、そのルーツに起因する。そして、それが被差別民の呼称となった理由もさまざまであり、長い歴史的経緯の中で、個別の呼称が持つ意味も変容していったことが関係している。しかし、まだまだ未開拓・未解決な問題が多い。研究もそれほどには進展していない。


前回まで、『現代の眼』誌上で展開された沖浦和光と菅孝行の対談をまとめたが、そこでも沖浦が力説していた「被差別民(賤民)と文化・芸能」の関わりについて、網野も同様のこと提言している。

…被差別民がその生活の中で創造してきたものの大きさについて、さらに考えていくことも、これからの課題として残されていると思います。…茶道や華道や能楽の源流は、広い意味で、河原者・非人と呼ばれた人々と不可分であり、こうした芸能の創造にこれらの人々が大きな寄与をしたことは間違いありません。室町時代に完成する、美しい庭園も、間違いなく「御庭者」と呼ばれた河原者の創り出した芸術でした。
また、加賀・能登・越中で「藤内」と呼ばれた人々の中には、「藤内医者」と言われて医者として扱われた人たちがいたことも判明しています。『解体新書』が翻訳されるきっかけとなった人体の解剖を行ったのも、「穢多」と呼ばれた人々だったのです。

京都を訪れる国内外の観光客は、金閣・銀閣・龍安寺などで、その見事な寺院建築だけでなく造園のすばらしさに感動を覚える。縁側に座して石庭を眺め、時間を忘れて悠久の時を知る。しかし、その石庭を創造した「河原者」については知る由もない。
日本の伝統芸能の極みであり、国宝に認定される演者を輩出し続ける歌舞伎や能楽。その幽玄の世界を堪能する人々は源流を知らない。そして始祖や受け継いできた者たちが賤視を受け差別されてきたかに思いを寄せることも少ない。

慈照寺(銀閣)の庭園を造ったのは、河原者である善阿弥とその子・小四朗、孫の又四朗の三代の人物によって完成されたと言われる。又四朗も庭造りの名手であり、その技術は高く評価されていた。又四郎は仏教の教えをよく学び、相国寺の周麟和尚と交流をしていた。又四郎が和尚に語った次の言葉が「鹿苑日録」という日記に記されている。

某、一心に屠家に生まれしを悲しみとす。ゆえに物の命は誓うこれを断たず。又財宝は心してこれを貪らず。

意味は、「わたしは、人々から差別される立場にあることを心から悲しいと思う。ゆえに誓って、生き物を殺さないようにしているし、決してものに対する私欲をもたないようにしている」である。
それに対して、和尚は「このごろの出家した坊さんも本当に私利私欲に走っている。彼(又四朗)に及ばない。又四朗こそ人間だ」と又四郎の言葉をたたえている。

※ 追記
1558年には銀閣一帯は戦場となり、義政の死後80年にして、慈照寺銀閣は破壊されてしまった。1615年、宮城丹波守豊盛が再建工事に着手し、慈照寺は復活した。しかし、『鹿苑日録』には「梵字一新、新奇可観」と書かれている。庭や諸堂が一新され新奇な景観となり、創建当初とは異なってしまったのである。現在もすばらしい庭園と思うが、善阿弥や又四朗の作庭ではない。


部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。