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時代の位相

ヤスパースは,世界恐慌による極度のインフレに苦しむ一方で台頭してきたナチズムに翻弄されていく大衆の精神状況を「人間存在の哲学が実存哲学へと急転せざるをえない状況にある」と断じ,人間存在の精神状況を次のように分析している。

人間存在は危機にある。危機とは信頼の欠如である。信頼はごく親しい人の間にしかないため,不信感はすぐに人々に意識されるようになる。技術と技術的な装置は世界全体に拡大し,それは水平化と平均化を引き起こす。そして,水平でなく平均でないことへの恐れを引き起こす。時間をかけて本物を見抜こうとしなくなり,出来合いの模像で間に合わせる。物真似がはびこる。報道において重みがあるのは人格ではなく珍しい体験であり,集注と沈潜ではなく拡散と多様が好まれる。競争は激しくなり,打算と利害関係が生き甲斐となる。人生はスポーツとなる。人格に自閉症と欠損が多くなる。平均的なものの集団が数多くなる。権威は失墜し,誠実と義務感は薄れる。批判は責任のない非難と自己主張に変わる。

これらはヤスパースが把握した時代の状況の一部ではあるが,テクノロジー至上主義が無力な「大衆」を生み出し,精神を画一化させ,人間をロボット化させたという文明批判は,決して90年前の精神状況とは思えない。彼はこの危機的状況からの脱却を,実存と理性に求める。現存在としての人間は実存の方向を求めるが,理性を軽視する。そのことへの批判的警鐘として書かれたのが『理性と実存』である。

ヤスパースの実存哲学は「理性」に基づくコミュニケーションの哲学(対話の哲学)である。彼は真理を目指して限りなく対話を続けようとする人間の無限の意志を「理性」(Vernunft)と名づけた。彼はソクラテス以来の西洋哲学の伝統である対話的な思考法として,これを現代の不寛容な戦争状態にある内外の政治的・社会的情勢のなかに復権させようとしたのである。それはいかなる部分的な独断的真理で一刀両断したり、偏った先入観や固定観念に陥りがちな我々の思考法を「開放」させる働きをもつ。いついかなる場合にいかなる話題について論じようとも、われわれは自己批判的思考を失ってはいけないのであり,たえず自分の思い込みを相対化しながら,他のあらゆる見解や真理に耳を傾け,合意を探ろうとする寛容な姿勢を失ってはならない,とするのが彼の言う理性的な態度である。

ヤスパースはたとえ人類の未来が悲観的なものであっても、一抹の希望をもち人間を信頼することが救済の可能性につながると信じる。「単なる生」ではなく,「生きるに値する生」の尊重,それは自由であることを愛し,つねに自由であろうとする人間すべてが抱く「人間の条件」としてのリベラリズムだからである。 ヤスパースは,いかなる不寛容な暴力的な相手に対しても「対話」の可能性を信じ,対話を通じてつねに相互理解とより包括的・普遍的な合意を目指す努力を怠ってはならない,とする立場を固守する。 たとえ個人対個人の関係であろうとも,意図的な対話の断絶や回避行為は不誠実であり,必ず限界に直面する。つねにありのままの自分を他者に開いておくこと,この勇気と強い意志だけが 開かれた人間関係,さらには開かれた寛容な社会の実現を可能にするとヤスパースは考える。

高橋和巳の小説は,現実世界に関わりたくないと思っていても,関わらざるを得ない,自分の思いとは逆に周囲によって翻弄される主人公を描いている。時代に左右され,主体を保持できなくなる人間の内面を情念的に描いている。救済のない世界を描くことで,逆に救済されるべき人間存在を暗示しようとしているかに思える。

ヤスパースも高橋和巳も思考実験の果てに同じものを模索している。それは人間の可能性である。これからの数年,時代は大いなる変動の中に入っていくことだろう。ヤスパースの予言する精神状況の時代となるだろう。そして,これから私が歩む道もまた葛藤の連続だろうと思う。現実世界と内面とのバランスに苦悩することもあるだろう。他者との確執や対立の中で孤立無援の闘いを繰り返していくかもしれない。その中にあって,ヤスパースの説く「理性的な態度」と「実存的な対話」を自分の立場として時代の位相に望もうと思う。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。