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三種の神器-啓発の問題点-

『ハンセン病市民学会年報2009』に,分科会B「啓発活動の在り方を検証する」をテーマとしたシンポジウム報告が集録されている。

前邑久光明園園長の牧野正直先生が「三種の神器」と呼ぶ「ハンセン病に関する啓発パンフレット」の問題点が提起されている。その問題点は,次の3点である。

①「うつりにくい感染症です(ハンセン病は感染力の弱い感染症)」
②「遺伝病ではありません」
③「完治する病気です」

これについて医学的立場から,アイルランガ大学客員教授の和泉眞藏先生が明確に答えているので,彼の発言をまとめてみる。

①について
日本人については感染力が弱い。感染力が弱いのではなく,感染力は「状態」によって変わる。多様性を持って変わる。だから,現在の日本ではハンセン病はうつらない。なぜ発病しないかというと,日本人の免疫力が非常に強くなったからである。
②について
感染症であるから菌がいる。それの感染を受けた人間がいる。人間の側の要因があり,これが感染を受けた後,発病するかどうかに影響する。それは「遺伝的素因」によってかなり決まる。
癌にしても糖尿病にしてもいろんな疾患を含めて,遺伝的素因の影響が当たり前のように語られる。それと同じ意味でハンセン病も遺伝的素因が関係する。ハンセン病も他の病気と同じように遺伝的素因が関与するが,普通の病気である。
③について
ハンセン病が完治するためには「まともな医者がまじめに治療すること」が条件である。

この「三種の神器」は,かつてのハンセン病が「怖い遺伝病」であるとか「恐ろしい伝染病」であるとかという極端な認識を否定するために逆に強調された結果である。

これも光田健輔の大罪の一つである。「怖く,恐ろしい病気であり,感染しやすく,遺伝もする病気で,発症したら一家全部が悲惨な結果に陥る」というハンセン病観を宣伝し,人々の認識に植え付けた。危険な病気であることを強調することで,排除・隔離・絶滅することを肯定させた光田イズムの弊害である。
人々や社会に浸透している「まちがった知識と認識」を否定するために,必要以上に「安全な病気」であることを強調したのである。

私は「振り子の針」であると思う。片方に強く振りすぎた結果,それを強く戻そうとする(否定しようとする)あまり,今度は逆方向に強く振りすぎてしまったのである。ハンセン病を「特別視する」のは間違っている。普通の病気である。このことを強調すべきであり,啓発の中心に置くべきである。

同様に,啓発の問題点の一つに「日常生活ではうつりません」がある。よくHIV感染病のパンフレットに書かれる言葉である。ハンセン病でも使われることがある。

「日常生活ではうつりません」,こういう言葉がよく書いてあるんですよ。そうするとみなさんね,ああハンセン病はうつりにくいのだなと思うんですけど,実際は違うと私は思います。日常生活,普通の生活しかしていないわけですよ,みんな。それでいてハンセン病にかかっている。
…セックスというのは日常生活ではないということになりますね。HIVは性的にうつる場合が多いわけですから,そうなのかということですね。ハンセン病もまったく同じで,普通の生活をしていた人がなるわけです。
…だからほんとに「日常生活ではうつりません」という言葉はいいのかどうか,それによってなんか変な安心感をみんなに与えているような啓発,これは根本的に問題があるのではないかと思います。
(上記シンポジウムでの牧野正直氏の発言)

「日常生活ではうつらない」という啓発には,次のような問題がある。
病気にかかった人は,「特別な生活をした人」であって,「普通の生活をしている自分」とはちがう人間であるという新たな偏見・差別を生み出すと同時に,自分には関係のないことなんだという逆効果が生まれる。逆に,「感染力が強ければどうなのか」という場合,この発想からは感染源を断つという「隔離」が肯定されることになる。ハンセン病では「なぜ感染者を収容したのか」「なぜ隔離したのか」,それは感染源を社会からなくすことで,この病気がなくなると考えたからであり,なくなれば「関係のない自分は,もはやうつることがない」という発想からである。

手元に,平成22年9月発行の厚生労働省が作成したハンセン病問題啓発パンフレット『ハンセン病の向こう側』がある。このパンフレットには「三種の神器」に関しては,牧野先生や和泉先生の指摘が改訂に反映され,次のように記載されている。

「らい菌」は感染力が弱く,非常にうつりにくい病気です。発病には個人の免疫力や衛生状態,栄養事情などが関係しますが,たとえ感染しても発病することはまれです。現在の日本の衛生状態や医療状況,生活環境を考えると,「らい菌」に感染しても,ハンセン病になることはほとんどありません。
ハンセン病は早期に発見し,適切な治療を行えば,顔や手足に後遺症を残すことなく,治るようになっています。


部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。