教育と福祉のボーダーライン

福祉と教育の業界を齧る程度に見てきて、どちらからも距離を置く業界へと身を置いた。ずっとアルバイトをしてきた飲食店で、真面目にバイトをしてきたから、結局そのまま就職することになってしまった。

少し変わった高い飲食店なので、ゴリゴリの接客業である。接客は得意だ。相手のことを考えて言葉を発し、ニコニコしていればいい。私はナメられやすい見た目をしているから、クレームなんかを受けやすかったのだが、私の持ち前の腐った性根をそういう奴の鼻に詰めて、二度とクレームを言えない身体にしてやった。というのは言い過ぎだが。

とにかく性格が悪いので、福祉も教育も界隈から離れてしまった。私なんぞにケアされる側も、願ったり叶ったりだろう。大学院も出たし、教員免許も取ったし、社会福祉士の資格まで取ったのにな。

しかし、そういうところにアルバイトに行くことがある。うちの店は副業OKなので、これからも余裕があれば続けるつもりだ。具体的には、学校寮の掃除と管理の関係にあたる。教育や福祉に近いようで、程遠いじゃないか……というツッコミは分かるが、しかし、曲がりなりにも学校の中。何となく、見えるところもあるのだ。

うちの学校には支援級があって、そこには自閉症スペクトラムの子や軽度知的障害、肢体不自由児などが通級している。通級というと、支援の制度上紛らわしいが。障害のある子ども達と、ない子ども達が、共に学ぶ。そこに、教育と福祉のボーダーラインがあるような気がして、勝手に考えてしまった。

あくまで学修した範囲のみの話で、専門家という訳ではないことを念頭に置いてほしい。これは予防線である。


ケーススタディ:Aさん

とある自閉症スペクトラム児を想像してほしい。仮にAさんとしよう。これは実在しない児童である。

このAさんは、揺れたり回転したりといった動作が大好きである。学内に、Aさん専用のブランコがあって、Aさんは、気持ちが落ち着かなくなると、このブランコに乗って、揺れたり回転したりするのである。

Aさんは自発的な発語がなく、こちらから話しかけると、オウム返しで返ってくる。短い指示程度の言葉は理解することができ、「水筒を取ってください」と言うと、「水筒を取ってください」と言いながら持ってくる。クレーン行動(他者の腕をクレーンのように扱い、ほしいものの元へ持っていく行動)によって自分の要求を伝える。

このレベルの自閉症であれば、自分の世界の外に他者がいることを想像することは難しい。自閉症は、モノ認知が強く、ヒト認知が弱い。その特性を踏まえて、教育と福祉について考えたい。


教育の視点から

教育の視点であれば、更なる支援・指導として、Aさんの世界へ積極的に介入することが求められるだろう。自分の世界の外に他者が存在することに気付いてもらい、他者からの働きかけを受け入れ、最終的には自ら他者へ働きかけを行うことが出来るようになれば、「困ったときに助けてもらう」ことが出来るからである。

能力を伸ばし、教員や支援員の手から離れたところで少しでも生きやすくなれるようにしていくことが教育であると、私は思っている。「困った時に助けてもらう」ことが出来るのは、困り事が多い障害者にとって、最大の武器となる。

Aさんの場合であれば、ブランコに乗っている時などに、「ブランコを押そうか?」と提案し、ブランコの操作によって、Aさんにとっての快・不快の刺激を入力しながら、反応(喜ぶ・嫌がる)を促していくことから始めるだろう。反応が出たら続け/止め、Aさんが反応することで他者の行動が変わることを学習してもらう。

ここまで来たら、要求の前段階である。快・不快を表すことで、他者からの反応が変わるなら、もっともっと快・不快を表出して、より望む結果を手に入れようとする行動が出てくるかもしれない。(出てこないかもしれない)

そうして、Aさんの世界に積極的に介入し、Aさんがより分かりやすく要求を伝えられるようになるよう、能力を伸ばしていく。これが教育である。


福祉の視点から

学校寮というのは、福祉に近いと思っている。福祉は、生きやすくなれるようにしていく教育と違い、生きやすい場所を提供することが命題であると、私は考える。福祉サービスの事業所などでは、最低限のこと以外、叱ったりしないことが多い。子どものことでは、危険も多いため、どうしても叱らなければならないこともあるし、保護者や学校から「これだけはNG」「この場合の対応はこうして」といった指示が出れば、それに従うのだが、基本は住みやすい場所の提供が第一である。

Aさんが、福祉施設でブランコに乗っていた場合、福祉事業所の職員は、どのように支援を行うだろうか? 恐らく、周りにぶつかったり、急にAさんがブランコを乗り捨てて外に飛び出したりといった危険がないように、細心の注意を払いながら、その行動を注意深く見つめ、最低限の声掛けをし、終わり際に「楽しかった?」と尋ねるだろう。Aさんは、オウム返しで「楽しかった?」と言い、その日を終える。平和でほのぼのとした日常の一幕、今日も何事もなく、安全に、楽しんで終われて良かった。Aさんも、繰り返す度に洗練されていくブランコ遊びを、誰にも邪魔されず夢中になれて、楽しい一日だったに違いない。

そこが、教育と福祉の違いではないかと、最近思うのである。Aさんにとって、自らの世界へ介入されるのは、新しい刺激を得られるが、邪魔な事かもしれないし、怖い事かもしれない。邪魔をされず、一心不乱にブランコ遊びをし、前庭感覚を刺激して望む心地良さを手に入れる事の至福は、本人にしか分かるまい。それを最大限に保証するのが、福祉サービスである。

AさんではないAさんを見かけるたびに、「私にも出来ることがあるのでは」と、自惚れを抱く。しかし何を? どうやって? 福祉でも教育でもない場所に身を置く私に、出来る事はあるのだろうか。

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