辛いのは私だけではないが、「私は辛い」と言っていい。

最近、「お前だけが辛いみたいな態度やめろ」みたいな言葉を聞く機会があった。私に対しての言葉ではないが、そう言いたい気持ちも分かると思いつつ。

もっと中心人物となる人がいる中で、さも自分がその辛い出来事の主人公のように振る舞うと、そう思えてしまうこともあるだろう。もしくは、加害者だった人が被害者ぶっていたりとか。そういうことなら、分かる。私でも、近いことを言ってしまうかもしれない。

でも、「私も辛い」ということを言うのは重要だ。それこそ、「お前だけが辛いみたいな態度やめろ」という意味で。辛い出来事の中心人物が辛いように、周辺人物だってそれなりに辛い。それを言語化することは、何の罪でもないし、中心人物に「私だけが辛いんだ」と孤独を味わわせてしまっているのであれば、むしろ周りも言語化すべきだ。「お前だけが辛いわけじゃない」と思うくらいであれば、みんなもっと言語化していい。もちろん、立場上「辛い」と言えない人たちがいるなら、気を遣うべきではあるが。

「あ、私が辛いだけじゃない」と気付けることは、双方に対して有効で、きっと楽になる場面もあると思う。孤独から救われることも、あるだろう。この言葉は、そういうときに使うべきだ。もちろん、他の人が辛いからって、自分が辛くないわけじゃない。だから、「お前が死にたいと言った今日は、誰かが生きたかった明日だ」なんて言葉も、押し付けてはいけない。そこもきちんと踏まえつつ、言葉を丁寧に使っていきたい。


余談だが、そういえば、「言葉を丁寧に」というなら、「頑張れ」という言葉も、丁寧に扱われるべきだと思う。やたらに「頑張れ」を毛嫌いする向きもあるが、「頑張れ」が必要な人もいる。

私も鬱で辛かったときは、「頑張れ」と言われたら死んでやるとまで思ったものだった。もう頑張っている、これ以上頑張れない、そんな言葉より助けてほしいんだ……。しかし、ふと立ち直る兆しが見えたときに、信頼できる人から言われた「頑張れ」が、身に染みて堪えた。「この人は、私が頑張れるって知ってくれている。信じてくれている。精一杯応えたい」と思った。

座右の銘を人に押し付ける奴は、嫌いだ。名言や言葉遊びを、何も考えずに振り回して、元気づけようとする奴は、大嫌いだ。そんなものはおのれの墓石にでも刻んどけ。口にするな。いつでも変わらずに自分を奮い立たせてくれる言葉は、使い方を誤れば凶器にすらなる。自分のために使ってくれ。ドヤ顔で振りかざすな。でも、本当に、本当に必要だと思ったときには、そいつは頼れる武器になる。例え刃物となる言葉であっても、本当にその言葉が必要だと判断したとき、優しさで包んで渡してあげられますように。

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