見出し画像

私は親を選んで生まれていない

<AIによるこの記事の要約です>
この文章は、「親を選んで生まれてきた」という考え方とは異なる視点を提供しています。著者は、親、時代、国を自分で選んで生まれてきたとは考えず、たまたま生まれた環境の中で生き延びるために必死になっていると述べています。特に乳幼児期の養育者の存在の重要性を指摘し、虐待を受けていた場合、その存在が命を脅かすものになる可能性があることを強調しています。
著者はまた、自分の親や周囲の人々の行動を模倣することで学ぶ子どもたちについて言及し、親がストレスや感情を適切に処理できない場合、それが虐待行動に繋がる可能性があることを説明しています。これらの行動の背景には、人間の脳の進化や社会的・文化的要因が関係していると述べています。
著者は、苦しみを軽減するためにコンパッション(自分自身や他人の苦しみに対して気づき行動すること)を育むことの重要性を強調し、これが自分を助けた方法の一つであると語っています。また、すぐに解決することのない苦しみに対して、特効薬のようなものに頼ることもあるが、それが一時的な解決に過ぎないことを認識することの大切さを指摘しています。
最後に、自分自身の苦しみを和らげる過程には時間がかかることを受け入れ、急がば回れの姿勢を勧めています。著者は、この記事をさらに加筆していきたいとの意向を示しており、読者に感謝の意を表して締めくくっています。


「赤ちゃんは、あなたを選んで生まれてきた」
「私たちの魂は、どこで生まれるかを選んで生まれた」

これらの言葉は時折耳にするし、こういった言葉に救われたり、幸せな気持ちになったり、納得する方もいらっしゃると思います。
しかし、今日私が書きたいのは、「親を選んで生まれてきたとしたらむしろ自分は辛くなる」という方と一緒にその気持ちを分かち合って、少しでも心を楽にできたらいいなという内容なので、ちょっと最初の2行に対して反論めいた感じに受け取られてしまうかもしれませんが、自分の考え方を大事にするというスタンスで書きたいので、そこはご理解いただけたらと思います。

自分は、親も時代も国も自ら選んで(望んで)生まれてきていないと考えています。
たまたまそこで生まれ、自らコントロールできないことの中で、必死に生きてきた。特に乳幼児期は、養育者の存在がなければ生き延びることはできなかったと思います。
もしこの頃に養育者から酷い虐待を受けていたら、養育者の存在は命を脅かすものになります。
だから、今日命を繋ぐことに精一杯だった方もたくさんいらっしゃると思います。もしこのnoteをご覧になっている方に、そういう方がいらっしゃったら、今日まで本当によく生き延びてきたねと言って抱きしめたい。
どんなに辛かったか、どんなに大変だったか、私も親子関係では闇を抱えているけど、それとは比べ物にならない大変な思いをしてきた方はたくさんいらっしゃるのを知っています。
そんな辛い思いをしている人たちが、自分で親を選んで生まれてきたわけがない。この辛さも、過去の傷も、少しも私たちのせいじゃない。何も悪くない。

じゃぁ誰が悪いの?悪い人がいるからこうなってるんだよね?
そう考えるのは自然なことです。

しかし、特定の誰かを見つけるのは、ほぼ不可能なことだと思っています。
なぜならば、酷い養育者であっても、その養育者が酷いことには理由があり、その理由にも理由があり…悪者探しは終わりのない旅路です。
だから、仕方がないので許しましょうと言う話をしたいわけではありません。されたことは事実であり、許せないなら許さなくていいと思います。
私にも許せないことがありますし、許せない自分に罪悪感を持つ必要もないと思っています。いつか許せたら…許せることを受け入れたいとは思いますが…。

話を悪者探しに戻します。
なぜそれが終わりのない旅路なのかということです。

それにはまず人間の脳の進化について話さなければなりません。
人間の脳は、生存戦略として非常に複雑に進化し、高度な機能を手に入れました。しかし、この高度な機能は、時に予期せぬ副作用を生じさせる厄介な側面を持っています。
人間の脳は、恐怖や危険を感じると即座に反応します。これは、二足歩行となった人間が生き残るために必要な反応でした。
しかも危険が去ったからと言って、ライオンに襲われ生き延びたシマウマのように、すぐに呑気に草を食べることはできません。感じた恐怖を何十年も思い出してしまうこともあります。

人間は社会的動物です。特に幼少期は親や周囲の大人の行動を模倣することで学び、親が示す行動や反応の仕方は、その後の子どもの人生における人付き合いをはじめとした行動パターンを形成します。
親がストレスや感情を適切に処理できない場合、親が虐待行動を取る場合は、その背景に、進化した厄介な脳と、自身の過去や経験、さらにその背後にある社会的・文化的要因が関係しています。なので、悪者探しは終わりがないのです。


じゃぁどうすればいいのか。
私の場合、自分を助けたものの一つは学問でした。上記のような学びを受け入れたことは、非常に大きな一歩になりました。そして、このような状況において、自分の中のコンパッション(苦しみを軽減するために自分自身や他人の苦しみに対して気づき行動すること)を育むことは非常に有効なアプローチでした。(コンパッションは、自己批判や自己否定の感情に苦しむ人々を助けることが多くのエビデンスでわかっています。)
コンパッションは、私たちを苦しみから解放し、より健康的でバランスの取れた心の状態に導く力を持っているのです。

Amazonで注文すれば翌日か翌々日には商品が届く時代を私たちは生きています。
そしてなんでもすぐにAIが答えてくれます。
こんなになんでもすぐにわかったり、解決したりする時代なのに、苦しみはすぐにはなくならない…。
この苦しみも、そんな風に消え去ればいいのに…。

時々特効薬のようなもの(言葉や考え方など)に出会って、ぱっと苦しみが消えることがあるかもしれません。
それが持続すればいいのですが、本来解決しなければならないことを無視していたことに気づかされ、落胆する場合があります。
あれはまやかしに過ぎなかったのではないかと…。
だとしても自分を助けたくてしたことだったのです。
少なくともそれで一つ私は学びを得ました。

考えてみれば、私たちは何年、何十年と自己批判や不健康なお気に入りの方法でどうにかやり繰りしてきたのですから、時間がかかると考える方が自然ですね…。

今回は、親を選んで生まれたと考えると辛くなるという人と一緒に考えるnoteを書きました。この記事はまた加筆をしていきたいと思っています。

今日も私のnoteをお読みいただきありがとうございました。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?