11. ユービックプロジェクト――エメーリャエンコ・モロゾフ「奇譚収集家エルンストシュッヘの巡礼」Hello, -1
Hello,
「なにを見せられていたんだ」
とエルンスト・シュッヘは言った。
敷居を越えた瞬間に彼を取り巻いていたものが消失し、夜の海上にいた。そのまま心身の自由もきかず白昼夢が覚めるような感覚によって、キキバラ・キキという学生の主観を四半日ていど切り取った生活を体験したが、そこも彼の知っている社会ではなかった。
「名もなき未来のひとつです、とでも言えば満足でしょうか」
とゼロは言った。
「もっとも、起こりうる出来事は起こりえない出来事も含めすべて名もなき未来ですが」
ぼんやりと霞む視界が晴れ、シュッヘはいま、キキのいた世界から、慣れ親しんだもとの世界へ戻ってきたのではないことに気づいた。あらゆるあるべきものがなかった。そして、あった。
三歩ほど離れた正面にゼロが立っている。二人の周囲は全方向がシャルトルブルーの独特なグラデーションで囲まれており、シュッへ自らの影すらなかった。シュッヘがさんざん資料で見てきたエッサイの樹や北のバラ窓、またほかのステンドグラスを構成する絵柄が、小さいものでは指の爪ほど、大きいものではカテドラルそのものを思わせる規模で、上下左右の空間じゅうを泳いでいる。それらはランダムに破裂し、また新たな絵柄をかたちづくっていく。
「いま」
とさわやかな笑みを崩さないままにゼロも口を開いた。
「あなたのキキバラ・キキについての記憶は、読後感ともいうべき、文字情報を受け取った頭が想像するイメージしかないのではないでしょうか。べつにそんなことは文字に限った話ではありませんが」
スピリチュアルアプリケーションはいぜん稼働しているにもかかわらずセイディーからはなんの反応もなく、外部へは通じるが知人と連絡をとるアドレスの参照とSNSに書き込むなどのあらゆるアップロードができない。部分的な通信の遮断はパスコードを知っている本人にしか不可能なはずだ。シュッヘは危機感をいだき、戦闘用のデバイスを開いた。
「むだですよ」
とゼロは笑った。
「あなたはここになにをしに来たんですか。勝てもしない格闘を挑みに来たわけではないでしょう」
「ぼくはウラジーミル・アタラクシアに会いに来たんだ」
「そうでしょう」
「こんなものに巻き込まれに来たわけじゃない」
「失望させないでください。あなたはだれなんですか」
「エルンスト・シュッへ。奇譚蒐集家」
「そう。いまは。たぶん」
おそらくダビデだろう、絵柄のひとつが躍動し、手刀でゼロの鼻から上を切り飛ばした。断面は空間と同じように青く、無数の泡が生滅をくりかえしていて、
「で、あれば奇譚を蒐集したほうがよいのでは?」
「それどころではないかもしれない」
「しかしこちらはあなたに用がある」
「知ったことじゃない」
「ウラジーミル・アタラクシアは転生しました」
彼は口だけで話していた。
「これから見届けてもらいますが、その前に。四二年前、わたしゼロ・フォレストが開発される前のこと、シンガポールで『ユービックプロジェクト』という画期的な実験が行われたのを覚えていますか」
「まだ生まれてない」
「いや、覚えているはずですよ。かの国は経済的発展を支えてきた外資誘致政策が国民の格差拡大と失業率増大を生み、対策として外国人就業規制や自国民雇用促進などを打ち出した社会改革が今度は外資誘致に歯止めをかけ、と未来の見えない板挟みの停滞期に入っていましたが、三◯年代に入って政府関連企業への巨額投資を民間、それも就労ビザ取得者へとなかばやけっぱちで開放した結果、起業の成功率が爆発的に上昇し、勝手に外貨を稼ぐスタートアップ天国となったのです。そこへ当時はコンテンツ産業を売りにしていた日本から一気に人材が流入したのは日本人以外のだれもが予想したとおりでした。マンガ、アニメ、ゲームに加えて映画、音楽、書籍など勢いを失っていたジャンルのクリエイターも潤沢な資金めあてに移住し、日本人に知らず知らず染み込んだ価値観をそれぞれが相対化し、よりユニバーサルな作品が量産され、世界中を席巻し、それを享受したワナビーがあらゆる国からまた流れ込みました。この果てしないスパイラルによってシンガポールがカルチャー・メッカと呼ばれるようになりました」
「高校で教わったよ」
「はたしてそうでしょうか。さて創作があれば不可分なものとして創作理論があります。日々続々と世に問われる作品たちの膨大な数に見合った感想、解説、批評、研究が発表され、それらが参照する文献の種類も日を追うごとに多岐となり、シンガポールは一般大衆からアカデミアまで一丸となって文系理系の諸哲学を巻き込んだ言論ネットワークを形成しました。そしてあるとき『創作とはなにか』というテーマに一石を投じる実験が国立学際研究機構によりスタートしました。それがユービックプロジェクトです」
「ちらっとネットニュースで読んだな」
「はたしてそうでしょうか。さてこのプロジェクトをひとことで説明すると、理想の創作の追求です。すべての個人がそれぞれに理想の創作をなしとげられるとしたら、なにができるか。具体的にいうと五感を再現するVR空間で被験者の欲するものがたちどころにあらわれるとしたら、どんな世界になるだろうか。これを観察してみようというのです。プロジェクトは国の全面的な協力のもとに進められました。まず動物実験で安全性を確保するガイドラインを作成したのち、全年齢から無作為に選ばれたうち実験への協力に同意した二◯◯◯人の国内住居者へ、特製のヘッドセットを着用してもらった上で、いつもどおりの生活を送ってもらいライフログを記録します。ヘッドセットに内蔵された最新式カメラとレコーダーと脳波計によって視聴覚と脳波を量子コンピュータに送信し、第一のAIである『チップ』が視聴覚から嗅覚、味覚、触覚を推定、被験者の五感を時系列的にデータ化します。その際ネットワークと人間との定期的なフィードバックにより精度を高めていきます。次に第二のAIである『ジョリー』が健康診断で被験者からMRIテストで事前に測定した脳内物質と脳波、そして五感のデータを照らし合わせ快不快の相関および因果関係を作成します。また『ジョリー』は脳波のβ帯域が一定値以下を示した場合には創造的行為がなされているとみなし被験者になにを考えていたか問い合わせもします。これへの返答を分析対象へ加えることでより被験者の理想とする世界へと演算結果を近づけていくわけですね」
「それで終わりじゃないだろう」
「はたしてそのとおり。ここまで出した結果をただ被験者に再現して見せるだけではとても創作とは言えません。哲学者ワツジ・タツローの述べるとおり『生きる事がすなわち表現する事』です。被験者に体験してもらうVR空間には現実と同じように、現実を超えて、リアルタイムで変化させられる可能性がなくてはならない。これは企画の主要件でした。実験は以下のように行われました。VRヘッドギアとモーションキャプチャスーツを身に着けた被験者を二メートル四方の小部屋に入れます。この小部屋には噴霧器と食事補助アームがあり、嗅覚と味覚を再現することが可能です。また、実際のところ人の五感は視聴覚さえだませばあとは勝手に脳で補完するという研究結果もあるのですが、サービスということである程度の触覚を取り揃えたアームも用意しました。企画会議ではこのあたりどこまで準備するかはおおいに議論され、排泄に関しては自己責任で満場一致を見たので、剣呑とした雰囲気になるたびにプロジェクトチームはうんちの話題を持ち出して場を落ちつけたのでした」
「そのくだり要る?」
「さらに音声入力ソフトによってテキストにされた実験中の被験者の言葉をVR空間へしかるべきタイミングで現実化する措置もとられました。この実験は統計上最低限必要な二◯◯◯人のうち、第一弾としてまず二◯人に遂行されました。地球上の絶景を次々と観光していくもの。思いつく限りさまざまな恋人と放蕩の限りを尽くさんとするもの。肉親や職場関係者から宇宙のかなたより攻めてくる侵略者たちまで殺しまくるもの。膨大な資本をもとに人間個人へのあらゆる重荷と劣等感を解消しようとするもの。多くの社会問題をワンアイデアで解決し名声を博すもの、本人なりのカオティックなヴィジョンを次々と空間に描き悦に入るもの、超高速で移動して膨張する宇宙の先を見た気になるもの。かなわなかった、あるいはかなえようともしなかった夢の実現を楽しむもの。性、人種、種族、生物無生物を超えた意識をシミュレートするもの。ざっとこんなところですが、このときVR空間で観察されたこれら諸世界には、さして意味はないとの判断がくだされました。問題は二◯人のうち一八人が、翌月の第二弾を実行する前に死亡したことです」
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