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水木と沙代は、「あった」のか「なかった」のか

大体の人は初めまして。

今年に入ってやっと話題作、「ゲゲゲの鬼太郎 出生の謎」を見ることが出来ました。長かった。心身諸々の体調を整えて年末に見に行こうと思っていたらコロナに罹患し、事前購入していたチケット代が吹き飛んだという悲しい出来事がありました。

自語りはこのくらいにして、今回は「水木」と「沙代」の関係をテーマに感想寄りの考察を綴りたいと思います。すでに多くの考察があがっている為、他の記事と内容は多少被ってしまっているかもしれませんが、ご了承ください。当然のようにネタバレ記事なので、鑑賞後の閲覧をおススメします。

はじめに「水木」「沙代」というキャラクターを出来る限り鮮明に解釈します。キャラクター像を基に「水木→沙代」「沙代→水木」と、それぞれが向ける感情を解釈します。結論とあとはおまけ。

注意点として、本記事は男尊女卑や近親相姦などセンシティブな話題を深堀しています。これらは歴史に基づいた考察であり、特定の人種、人物、団体を差別しているわけではないことをご留意ください。


水木評

水木の根底にある「強者による弱者搾が許せない」という思想

水木の当初の目標は会社で出世することであった。この本質は強者になって力を得ることである。
水木は戦争上がりのサラリーマンであり、水木の回想では、戦地で上官から酷い扱いをされたことや、母が親戚に騙されて財産を取られたことが明かされている。
このことから搾取されない側に回るために「力を持ちたい」と中盤でゲゲ郎に本心を漏らしていた。

水木は序盤で、沙代が龍賀の娘だということを思い出して紳士的な対応をする。時弥に対しても優しく接している。しかし去り際、二人を背にすこしほくそ笑んでいるところをみると「今のうちに優しくしておこう」くらいの下心がありそうだ。
また、時貞の葬式中に乙米に問い詰められ「心中お察しします」といかにも悲痛な声で頭を下げるが、鑑賞者に見えるカットはどうみても真顔であり、これが心からの言葉ではないことが分かる。これは強者になるための水木の欲深さ、悪性と言えるだろう。この時の水木は自分の望みの為に、本心ではなく上辺のみの嘘で固められている印象がある。

しかし時麿殺害の下手人としてゲゲ郎が始末されそうになった時は。咄嗟に待った!をかけた。これは戦時中の命の扱いがフラッシュバックし、ゲゲ郎が搾取される側に重なったためである。(躊躇いもなく人を殺そうとする龍賀の異常さを止めたのもあるだろう)これは弱者に寄り添った水木の善性とも言える。

強者になる為に人を利用し嘘もつくが、弱者が虐げられているのは許せない。

この矛盾こそが水木が「人間らしい」と評価される理由と思われる。
水木は作中で善寄りの人間ではあるが、良くないことを一切していないのかと言われればそうではない。
上辺を取り繕う、お世辞を言う、当たり障りのない発言をしてかわす。悪事とは言い難いが、私たちもついやってしまう嘘や隠し事だ。悪意はないけれども、正しい行いなのか?と言われたら少々考え込んでしまうかもしれない。
そうした一般的な個性や倫理観があるからこそ、鑑賞者が水木に感情移入しやすいのではないだろうか。

しかし、かと言って平凡なわけではなく、作中ではかなり上手く立ち回りを考えて行動しているように思える。そのため見ていてあまりストレスもなく、スッキリと鑑賞できた。多分地頭が良いのだろう。頭も舌もよく回る男である。

終盤、過去との決別をする水木

そんな水木も心境の変化があり、終盤では覚悟がかなり決まっている。
名台詞、「あんた、つまんねぇな!」「ツケは払わないとな」の二つを軸に考察していく。

時貞は「未来への躍進」を理由に弱者を虐げ、搾取した側の人間である。これは水木が最も嫌う強者だ。

時貞は「会社をいくつかやろう、もっといい服を着て贅沢をしろ」と、これからも働く水木に対して誘いをかけるが、水木はその提案を「あんた、つまんねぇな!」といって一蹴した。その結果、時貞は呪詛返しで死ぬことになる。今まで他人にしていたことがそのまま自分に返ってくる。そのままの状況に水木は「ツケは払わないとな」と吐き捨てた。

この二つの台詞は自分に向けたものでもあるのではないだろうか。
「あんた、つまんねぇな!」は強者に憧れ、のし上がろうとした自分への否定。
「ツケは払わないとな」は自分がしてしまったこと(沙代を救えなかった、龍賀の秘密に早く気づけなかった、Mの正体を知らずにゲゲ郎を巻き込んだ等々)に対して、元凶である時貞を倒すことでツケを払った。

これら終盤の一連の出来事から、水木は強者になることを切り捨てて弱者を守る方向に切り替えた(前を向く)のだろう。

……だが弱者を守るというのは、すこし大雑把かもしれない。具体的に突き詰めれば、ゲゲ郎に託された大切な人を守ることだろう。

ちょっとした余談

余談ですが、改めて見ると最後の山田の台詞「鬼太郎くんはどうして人間に優しいの?」のアンサーがエンドロールの最後「水木が抱きしめてくれたから」なのがとても良いですね。哭倉村のことは忘れてしまったけれども、心の成長とゲゲ郎の言葉は生きていたのがグッと来ました。

セルフオマージュ元であろうアニメ墓場鬼太郎は、水木が鬼太郎を突き飛ばして拒絶するので、だいぶ鬼太郎の性格がこじれています。良い対比!

沙代評

沙代が抱える歪み

沙代は推定十代であり、一族から「龍賀の女の務め」と称した過酷な性的虐待を受けている。そのため龍賀家自体に強い恨みを持っており、心に深い闇を抱えている。
そうした恨みからなる闇が妖怪を引き寄せてしまい、沙代は狂骨を従えて人間を自由自在に殺せるまでの力を得た。作中で行われる殺人は全て彼女によるものであり、この件に関しての黒幕である。

沙代はそうした悲惨な背景がありながら、作中で無垢な少女であることを貫き通している。
鑑賞者や水木は沙代に対して、良いとこのお嬢さん、都会に憧れる箱入り娘のようなイメージを抱く。男性に優しくされて頬染める描写なんかはいかにも少女らしい。また常識もあり、礼節もしっかりしている。生真面目で清楚なのだと思うだろう。

酷い環境にありながら自身を保つというのは、少女にはいささか荷が重い。沙代が闇を抱えながら素であろう少女らしい性格に歪みが生じていないのは、ある意味彼女が持つ異常性ともいえる。この一貫する少女性には「龍賀の異常性を理解し、抵抗する」という価値観が基盤になっており、沙代が正気を保つための命綱なのかもしれない。

黒幕を分からなくする演出上の都合なら、この話はこれまでです!

沙代は「子供」である。

もう一つ。沙代はまだ子供である。
沙代の行動は水木や他の大人たちと比べて単純である。また水木と違って、人の本心を見抜けず、上手く立ち回って切り抜けることも出来ない。

そもそも沙代の殺人は全て予定されたものではなく、突発的に行われたものである。沙代がもし狡猾で聡明であるのなら、時麿はまだしも丙江を人間が殺害したように見せかけ、容疑を一族の誰かに擦り付けることも出来たのではないだろうか。庚子に至ってはほぼ衝動的に殺害しており、これは少し癇癪のようにも見える。

これらのことから沙代は考えていないという訳ではないが、考えがまだ足らないという子供らしさを持っている。後述するが、水木への好意もこの子供らしさに起因しているのだろう。

水木→沙代

子供としてしか見ていない水木

水木は沙代から向けられる好意に対して、その場しのぎの発言をして対処している場面が多い。その行動にゲゲ郎は「真剣な気持ちを弄ぶな」と言うが、水木は「夢見がちな少女の戯言」と言い返す。

このように水木にとって沙代は子供であり、沙代の恋も一時の気の迷いとしてロクに相手をしない。これは大人だからこそ、子供故の夢見がちな愚かさを知っているのだろう。

しかし終盤、水木は沙代が「力の強い子を産む龍賀の女」として時貞と近親相姦を繰り返し、子を産む道具として使われていたことを知る。水木は龍賀のおぞましさに耐え切れず嘔吐してしまい、その際に「そうか、だから俺なんかに」と沙代の好意がSOSの裏返しであったことに気づく。

「全てはお父様の夢の為」と大義の為に何を犠牲にしても良いと語る乙米の姿は、水木の中で戦時中の上官に重なる。このことから龍賀一族は強者であり弱者を搾取している集団であり、沙代や幽霊族は弱者側、いわば被害者であるという構造が水木の中で確立したのではないか。

当初は水木も沙代を利用していた身であり、子供であるからと蔑ろにした好意の裏にあるものには気づけなかった。水木は自分も強者の立場から弱者を利用していたことに気づき、その償いとして何としてでも沙代を救おうとしていた。

目を逸らした理由

にも関わらず水木は沙代の「水木さんなら私を見てくれるって」という言葉に目を逸らしてしまった。

水木の精神構造は極端なモノではなく複雑で、矛盾点が多い。それは人間らしさであり、また出世や結婚、自分の立場や立ち回りなど考えることが多い大人としてのものである。

水木は「自分が沙代を救う資格は無い」と思ったのではないか?
自分も本当は「沙代」を見ていたわけではない。むしろ見ていなかったから思わせぶりな態度を取ってしまった。それは沙代が嫌う龍賀の人間と同じであった。だからこそ自分は沙代を真の意味で幸せにはできない。その後ろめたさから躊躇ってしまった。

目を逸らしてしまったがために沙代が死んでしまい、骨も残らず灰になってしまったことに咽び泣く水木の中には、自責の念しかない。

沙代→水木

好意はあったのか

沙代は水木に優しくされて頬を染め、好意を持って迫り、拒否されたと感じて傷つくなど、ストレートに解釈するなら水木への好意が見て取れる。
しかしそもそも沙代は、自分の置かれている状況から脱却するために村を出ることを望んでいたのである。だから都合よくやってきた水木を利用しようとしていたのではないか。

私は沙代の好意が本物であると主張する。

一番大きな理由は処女ではないことをひたすらに隠そうとしたことだろう。
地域差は勿論あるが、あの時代で未婚のお嬢様が非処女であることは常識的にあり得ないことである。嫁入り前の娘は処女でなければいけないという思想は江戸時代の武家(上流階級)からなるもので、今回の舞台である昭和時代にもその名残がある。

ただフォローしておくと全体的にそうだったわけではない。
これは上流階級の名家やそれなりの家庭にみられたもので、貧しい家なんかは「そんなこと構ってらんねぇよ!」と気にしなかったりもした。しかし言い換えれば「女は処女でなければ良い家に貰われない」ということでもある。

そもそも何故処女ではないといけないのか?
様々な理由もあるが少しだけ大雑把に説明すると、過去の男性との性行為は不貞同然といった風の価値観が古来からあったためである。おそらく信仰や風習などもう少し複雑な面を持つ文化だと思うが、要は処女が不貞疑惑を払拭するための証明であった、ということである。

処女ではないことを乙米にバラされて崩れ落ちるのは、自分が純潔ではないことで水木に嫌われる、結ばれないと思ったのではないか。

また「あなたは龍賀でしか生きられない」という乙米の発言は、龍賀の地で暮らすなら嫁の貰い手もあり、沙代は子供を産むことで存在を肯定されるが、外に出ては沙代を肯定するものが何もないという意味も含まれているのだろう。

成人男性への嫌悪

そして理由のもう一つに、沙代は成人男性を嫌悪していたのではないかということが挙げられる。あの歳で性的虐待を受け、龍賀に従う気は無かったことを考えるとおかしくはない話である。

そのために見ず知らずの自分にかなり優しくしてくれた水木のことをすぐに好きになってしまったのではないか。それに加えて水木は外部の男性であり、沙代にとっての希望の光だった。

水木も「夢見がちな少女」と指摘していたように、優しくされたからとすぐに好きになってしまうのは子供の初恋らしい。

沙代は水木の上辺でしか物事を判断できず、本当は水木が自分を女として見ていないことを知らなかった。悪く言えば沙代は子供故の単純さで大人の感情の機微を理解できなかった。このために咄嗟に目を逸らした水木の感情を拒絶と判断してしまい、絶望してしまう。

また、沙代が最初から東京に行っても女に自由は無いと知っていたことを踏まえると「東京に連れていってほしい」という言葉は沙代の中で水木と共に在れることが前提であるため、水木でなければ出てこなかっただろう。

結論

長々と綴りました。結論として。

水木は沙代を子供、搾取される弱者であると認識し、救おうとした。
沙代は水木が自分にとっての唯一の男であり、自分を見て欲しかった(愛してほしかった)

しかし水木は沙代に対して最初から誠実に対応せず、沙代は子供故の単純さで水木を理解することが出来なかったことにより、沙代は命を落としてしまった。

二人にはとにかく時間が足り無かった
もっと時を経て二人が親密になり、お互いに本音を言えるような間柄になっていれば水木も沙代を救うことが出来たのではないか。特に非処女であることの告白を沙代が出来るかどうかというのが大きいだろう。

故に私は映画鑑賞後に「全部間違えたヘブンズフィールみたい」と感想を残してしまった。

おまけ

沙代の父である克典は、沙代が龍賀の名のもとに虐待をされていることに気づいていたのだろうか。

その答えは克典の「アレをくれてやる」という言葉にすべて詰まっている。

女性を報酬として嫁に差し出すことは、文化として古来より存在し、あの時代では普通の価値観であった。

日本で代表的な例を挙げるならば、スサノオの八岐大蛇退治の物語には「娘を嫁としてもらうこと」を約束に化け物を退治する描写がある。
そうでなくても和洋問わず様々な昔話で「助けてくれてありがとう!お礼にうちの娘をお嫁にどうですか」からの結婚エンドは多い。そういった話を読んだことがある人も多いのではないか。(なんか最近は5chのスカっと話にもこういうの多い気がします)

逆に女性が家にいつまでもいるのは行き遅れとして扱われるため、克典が娘の結婚を考えてお気に入りの水木にあげようとするのは、上流階級の父親としては一般的な行動である。
非処女であることを知っているならば、水木にあげるということはしないだろうし、もう少し邪険に扱っていたのではないだろうか。

ただ、流石に「アレをくれてやる」は口が悪いので、沙代のことは自分を一族につなぎ留めておくための子くらいにしか思っていなかったのかもしれない。しかし沙代の都会的なワンピースはおそらく克典が買い与えた可能性が高いだろうし、最低限の愛くらいはあったのではないだろうか。

おわり

長々書いてすっきりしました。

昭和が舞台となっている故に今の時代から見るとムっとする場面も多いですが「この描写は差別だ!気に入らない!」と声をあげる前に「何故そんな発言、行動をするのか」を考えてみると意外と面白いです。
それを踏まえて「この時代やばかったね~」と思えるなら今の時代大丈夫なんじゃないでしょうか。

ともかく、感情だけで作品や登場人物を批判するのは良くないです。
どうしてもそういう意見が目について「違うんだよ、そうじゃないんだよ」という気持ちが昂ってしまったので書いてしまったところもあります。

批判やご指摘は大歓迎ですので、記事引用などでどうぞ。

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