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行きて帰りし物語

子どもが久しぶりに『かいじゅうたちのいるところ』を本棚から持ってきて熟読していました。この作品はモーリス・センダックによる絵本で、絵本のアカデミー賞といわれるコールデコット賞を受賞している作品です。主人公のマックスはおおかみの着ぐるみを着て、やらかしたいたずらのせいで夕食抜きで部屋に閉じ込められてしまいます。すると、不思議なことに部屋から木がにょきにょき生えてきて、ジャングルになってしまいました!マックスはそこで思う存分遊び、あばれて過ごします。恐ろしげな大きい目をしたり、大きな牙や爪をもつかいじゅうたちを従えて、マックスはジャングルの王様になります。この絵本がすぐれているところは、マックスの気持ちの大きさを絵の大きさで表現しているところです。かいじゅうの王様として活躍しているときは画面いっぱいに絵が描かれ、現実に戻ると余白がいっぱいになります。

「行きて帰りし」物語はわたしたちの生活に根付いています。人間というのはたいてい行って帰ってくるものです。小さい子どもだって、幼稚園なり保育園に行って、帰ってきます。友たちと遊びに行って、夕方家に帰ってくるものです。

『ピーターラビットのお話』『ちいさいおうち』『ツバメ号とアマゾン号』など絵本から児童文学まで、子どもの本のロングセラーには「行って帰る」構造が多くみられます。行った先でさまざまな経験をし、世界の広さ、自然の摂理。現実の厳しさなどを実感し、経験して子どもたちは家に帰ってきます。子どもの本の世界ばかりではありません。実際には映画や聖書、紀元前に作られたホメロスの叙事詩も「行きて帰りし」物語です。

子どもたち(とは限りませんが)読書という行為を通してどこかに行き、その先でさまざまな経験をして、帰ってくる。そこで得られた新しい「まなざし」をもって現実を生きるのだ、と河合雅雄は言いました。

香道の中に組香といわれるものがあります。組香は数種類の香を組みあわせて物語や和歌、歴史や風俗、行事などを表現するものです。組香を作るときにわたしたちはまず主題を考えます。同じ和歌から香組を作るとしても、その作成者によって、解釈や興味関心の点は違うので、作者の感性にもちがいが生まれ、全く違う香組ができ上がるところも面白い点です。江戸時代は新しい組香がたいへん多く生まれた時代で、当時の本を見ると、ひとつの和歌に対して十種類以上の組香が生れている場合もあります。

組香の席ではたいてい試香と言われる試しで聞くことのできる香が出てくるので、それを聞いて、よく覚えます。そのあと本香と呼ばれるそのテーマに即して選ばれた香が出てきますが、その中には試みで試したものと、客香と呼ばれる試みとは違う香が混ざって出てくるので、その中からさっき覚えたものと新しいものを順次聞き当てていきます。

組香で使用される香木は自然な木そのものになります。ですから木の切り出す場所によっても香りは違う場合もありますし、その日の天候気温によっても香りが変わります。炭の入り加減や順番で微妙に香りが変わるので一番最初に聞いた人と最後に聞いた人では香りが違う場合もあります。そのなかで香の同異を当てる遊びになります。

しかし、組香の楽しみは当てるか当たらないか、ということだけではありません。組香の趣でその主題をどのように作者が表現しようとしたのか。その面白さも香道の面白さのひとつです。

源頼実というひとが平安中期におりました。大変な風流人で「命をささげてもいいから、いい歌を詠みたい」と住吉の神様に願を立てました。その後5年のうちに重い病に倒れ、祈祷していると、住吉の神様が降りてきて、「もうおまえは傑作を作ったから大願成就である」と言いました。という逸話が『無名抄』に残っています。その和歌がこちらです。

木の葉散る 宿は聞きわく ことぞなき

時雨する夜も 時雨せぬ夜も

さっと降っては止む時雨、風に散る落葉の屋根に打つ音、ひとりさみしく家の中にいると、それが雨なのか落葉の音なのかがわかりません。

平安時代中期にできたこの和歌ですが、現代人である私たちが聞いたとしても秋の夜の一人でいるわびしさやさみしさ、趣が伝わってくると思います。この世界を香組で表現するのですが、しんと静まった中で時雨の音を聞き分けることを香を聞き分けるに展化していくことで自然の感覚や感性を感じられるように作成していきます。

参加者側はこの和歌を聞きながら、「木の葉ちる」の香り、「宿は聞きわく」の香り、と聞いていくうちに、実際に自らが平安時代の山麓にある庵で心をひそめて時雨を聞き入る人の静かなたたずまいや、心の動きを感じることができます。

香を聞いているその時、参加者は現実から離れて「行きて」います。香組が終わるとその世界から「帰ってくる」ことになります。香は大変高級な「ごっこ遊び」でもある、といいます。香の香りによって、「行きて帰りし」物語を体感することができるのです。

こどもだけではありません。誰でも「行きて帰りし」物語によって、あちらの世界に行き、体験をすることで心の最も奥で帰る場所を確認し、帰ってくる体験が必要なのではないでしょうか。


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