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ざっくり魯迅~魯迅を楽しむ基礎知識!~その①

先日読書会で魯迅『阿Q正伝』をみんなで読みました。そのために学んだ魯迅とその時代のお話。

1魯迅の生きた時代を知ろう


清朝の終わりに紹興の町に生まれた魯迅は、12歳で科挙(進士)合格の超秀才。21歳の時に現在の東北大学医学部に留学してきました。清朝最初の国費留学生の一員です。とっても優秀だったのですね。

ちなみに科挙は中国の伝統的な官吏選抜の試験です。隋から清まで1300年にわたって行われていました。科挙の試験にはいくつか種類がありますけど、「進士」っていうのが最難関で、最盛期には倍率3000倍といわれ、平均合格年齢は38歳。(それまでは、下級官吏をしながら合格を目指したりすることも)これ、なんで始まったかっていうと、古代はお父さんやお祖父さんの官職に合わせて官位を上げるというシステムだったんですけど、(日本はそのシステムを律令制を導入したときに捨てられませんでしたね・・・それで紫式部が『源氏物語』の中で若干皮肉っぽく夕霧に大学進学させていました。閑話休題)隋の帝で陽帝という方が導入しました。
科挙は家柄や身分に関係なく誰もが受けられる画期的な制度でした。とはいえ、女性や商人、芸人などは受験資格がありません。女性差別の上職業差別も・・・ひどいー。とはいえ皇帝が行う行事でもあるので、決してカニングなんてできない様になってます。(だって、皇帝にわいろ送って・・・ってなかなかできませんもんね。普通は。)では伝統的に科挙社会は腐敗や門閥がないのか、と言われるとそういうわけではないのですが、皇帝の外戚による専横からの内戦ムーブから逃れるための制度でもありますから、世襲だから、ということだけで朝廷の要職を占める、ということが起こりにくくなるんですね。
話を魯迅に戻します。
魯迅は日本に留学することになりました。このころの清はもう西洋の列強国主に英、仏、露、そして列強の一員になるべくふるまい始めた日本によってボッコボコにされた後ですからね。
日露戦争の勝利で欧米列強の一員になれたのでは?どや!!と浮かれている日本に来た魯迅。祖国がボコられまくって植民地化されていく様子なんかを仙台から見ることになりました。
どうおもったんでしょうね。
西洋医学を学びつつ、西洋の考え方、哲学に触れた結果、魯迅は「医学は肝要ではない」と考えるようになりましたとのこと。
つまり、医学を学んでも、国の病は治らない、みたいな。
おおきなきっかけとして魯迅は仙台時代、中国人を拷問して打ち首をする映像を見たという体験があったそうです。いくつかその記録が残っているんだけど、それを見た、と言われているのは学校の講堂らしいのですが、どうもそうじゃないらしい。教室でニュース映画を流したのでは?とも言われてますが、当時、そんなことすることできるのかな?とかその価値観あった?とかいろいろ言われています。本人の記憶もいまいち定かじゃないのかな。(本人の記述と合致する学校の記録がどうもないらしい)
ちなみに内容はスパイ容疑をかけられた清国人が日本軍によってみんなの前で打ち首をされる動画だったとか。そんなの流して学校のクラスメイトが大盛り上がりしてるとか全然意味わからないですよね。現在の感覚でいうと無理だけど、まあ当時はいぇぇぇーーい!!と盛り上がったと。魯迅のことも考えろや!
で、そこで魯迅が気になったことは斬られている清国人ではなく、そこに映っていた「打ち首の様子をむしろ見世物として受け入れて見物していた大衆」に衝撃を受けたと『吶喊』(とつかん)の「自序」に書いています。
じっさい、こういった民間人を軍人がほいほい殺してしまう、ということはよくあって、軍事行動中の駐留していた町で虐殺、といったことはままあったらしい。引きますよね~複数人じゃなくてたとえ一人でも虐殺なんてダメだろと思うけどね。
人数は諸説あるにしろ、何かしら言いがかりをつけて民間人をころしてしまう、とかはあったし、それを「列強の一員としてのふるまい」として世の中に受け入れられていた、ということです。
そんな様子を見るにつけ、知るにつけ、魯迅は医者になって清に戻ることはやめ、近代国民国家を清に作らなくては、という気持ちを持ってまずは学校を中退し、東京へ向かいます。

東京に行った魯迅は出版業を始めました。出版物によって、新しい知識や教養や国際情勢を祖国の人々につたえ、西洋の科学的な知識…たとえば進化論や、哲学…例えばニーチェを啓蒙しようとしたのです。

ところが、これがまったく売れなかった。。。
でしょうねえ。つまんなそうだもんね・・・ 

出版には何度か挑戦しますが、どれもこれもまったく売れませんでした。

次回、魯迅帰国です!!

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