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おしゃれすぎる…明治の浮世絵

明治時代が始まって新しい知識や染料などが入ってきて、浮世絵世界もどんどん新しくなりました。
〈開化錦絵〉であり、〈光線画〉です。(「美を結ぶ。美をひらく。美の交流が産んだ6つの物語」 サントリー美術館より。)

光と影を操る浮世絵師、小林清親

「柳原夜雨」小林清親

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こちら明治前期の版画作品です。人力車や新しい消防署があれどいまだに街は江戸の雰囲気。
ちなみに、万世橋から浅草橋のあたりが当時柳原と呼ばれていたあたりだそうですよー!


どうでもいいけど、「最後の浮世絵師」って、割と沢山いるよね…なんなら。
と、思いつつ、そんなふうに呼ばれるうちのひとりがこの小林清親さん。

幕末の生まれでね、大正時代始めまで生きた人です。幕臣のおうちの子だったんです。
江戸時代というと大昔ー!って思いがちですが、ほんの150年くらい前のことです。
で、幕臣ということは、鳥羽伏見の戦いなんかにも加わりまして、明治維新後は徳川家と一緒に静岡に行きました。
けどもまあ、なかなか食べていけなかった、ということで東京へ来て絵師になりました、という挫折に満ちた経歴の持ち主小林清親。


すごい才能の持ち主!!!!
光線画だけじゃなく、新聞の挿絵とか、戦争画とかいろんなところで活躍してました。
もう器用なんだから。

横浜浮世絵が魅力的すぎる話

写真① 横浜異人館 座敷之図
五雲亭貞秀

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五雲亭貞秀さんはその名の通り、歌川国貞の門弟でした。
天保年間から活躍して、開港直後の横浜の姿を多く浮世絵に残しました。その数100点!!
こういった浮世絵は、外国への人々の興味や関心の高さを表しますね!

ファッションチェックでもあり。日本人は珍しいもの、特別なもの、珍奇珍品が大好き、という趣味趣向がこうった横浜浮世絵には出ています。

赤い浮世絵は見たことありますか?

江戸時代、町人文化が花開いて浮世絵も始まりました。当初は瓦版やお店の宣伝でスタートした多色刷り版画、という位置付けでした。いろいろな時代を経て、文化ぎ成熟すると技術が向上してきます。
例えば!着物の模様をエンボス加工(空刷りって言います)してみたり。
背景に遠近表現を入れたり、西洋から入った新しい染料を使ったり…。

今回はそんな新しい染料を使った赤い浮世絵。
頭おかしいわけじゃないですよ!赤、使ってみたかった。後悔はしていない、というヤツだと思いますよー。

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写真は「東京名所浅草公園観音真景」
歌川重清です!浅草12階がありますねー

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