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ツーブロックとばさら大名

「これって、ツーブロックだよね」
帰宅したムスコ氏が言いました。ツーブロックとは男子のヘアスタイルで、一般に頭部の耳より上を残して下を刈り上げるスタイルのことです。一般紙などでもブラック校則のひとつとして話題になっていたことがある、あのツーブロックです。整容検査では男子の頭髪は耳にかかるといけないという校則があるそうで、ずぼらで面倒くさがり屋のムスコ氏は、まったくだらけた感じのもっさり頭だったわけです。結果「なにはともあれ週末に床屋に行かねばならぬ」という状態になり、帰ってきたら、ツーブロックいなっていた、というわけです。

翌日もちろん担任の先生にムスコ氏は怒られたそうです。「君は何を考えているのだ。ツーブロックは禁止だ!」彼は言い返しました。「髪型の自由は憲法15条で保障されているはずです」一言われたら十言い返すことを近頃の信条としているムスコ氏、更にツーブロックが事件事故に巻き込まれるという先生の主張に対し、それはエビデンスに欠けていることなどを主張。先生は最後「俺に言われても困る。ダメなものはダメなのだ!とにかく切ってくるように!」そこで、ムスコ氏はさらに主張しました。「アメリカでは頭髪、髪型についてあれこれ言うのは人種差別ですよ」と。そして、「ここは日本だ!」と言われたと、嬉しそうに私に語りました、彼は鼻息荒く言いました。こうなったら、おれはこの学校の校則を叩き潰す。

これは「うつけ」なのかな?「ばさら」なのかな?

ばさら、とは南北朝時代の社会風潮や文化的流行をあらわす言葉のことです。身分秩序を無視して実力主義的であること、権威を軽んじて嘲笑すること。なにごとも派手な振る舞いや、粋で華美を好む美意識のことをいいます。うつけの方はその後の室町時代末期での同じように華美な服装を好み、中身がからっぽ、というちょっと本人を揶揄する意があります。
鎌倉時代の末期から南北朝時代を生きた佐々木道誉は、ばさら大名として有名です。また古今の風流人と言えば第一に佐々木道誉、と言われるほどでもあります。貴族の嗜みとして、沈香木の粉末のほかに様々な材料を合わせて丸薬とし、それを熟成させてオリジナルの香りを作る、といった薫物からこの時代、香木そのものを焚く、という今のようなスタイルが生まれました。禅宗によって自らの心のうちを平らかにし、簡素であることを良きものとする考え方は薫物よりも香木そのものの香りを取り入れる聞香が好まれたのでしょう。

『太平記』では、公家が困窮し路頭に迷ういっぽうで、武家が日ごとに台頭してくる姿が描かれます。佐々木道誉のようなばさら大名を中心に、今までは貴族しか着られないような着物を着、日々を派手に、贅沢に過ごしていました。足利尊氏は『建武式目』を通して「倹約すべき」と記載をしたほどですが、佐々木道誉のばさらしぐさは変わりませんでした。
佐々木道誉は戦のさなか、楠木正成軍により都落ちを余儀なくされたときも、屋敷には畳を敷き、沈香でできた枕を用意して立ち去るなど、自分のふるまいを誇示しました。
また政敵が、将軍御所において花の遊園をやると聞いたら自らは、別の場所で藤の枝ごとに青磁の香炉を釣り、沈香を焚き上げました。周囲を囲む4本の木のとなりにそれぞれ大きな香炉を置いて、一度に一斤(60㎏)の香木を焚き上げて周囲の村や町にも香りが届き、極楽浄土はこんな匂いがするものか、と御所で行われた遊園の何倍もの数の人を集めた、と言われています。

そんな佐々木道誉は当時『二条河原落首』の「この頃京に流行るもの」で揶揄された十種香もたしなんでいました。これは十種の香を聞き当てるものだったらしいのですが、正解すると参加者に絹の反物や唐物を賞品にするなど遊び方も大変豪気なものでした。
このように何事にも豪奢であること、人と違うこと、新しい価値観を持つこと、既成概念を打ち壊すこと、を信条としていたばさら大名ですが、亡くなった際にはなんと200種の香木を残した、と言われています。その香木を引き継いだのは幼少期からなにかと目をかけていた三代将軍、足利義満でした。200種の香木は義満のもとで公家の三条西実隆と武家の志野宗信が香木の分類、整理を行うことになりました。そして、今の香道へとつながっていくのです。

学校の既成概念を打ち壊し、新しい価値観を持ち、人と違うことを信条とするムスコ氏は果たしてばさら男になれるのでしょうか。佐々木道誉はただ変わった服装をしていたわけではありません。月岡芳年の浮世絵に描かれる佐々木道誉は足軽に笹を持たせて、短冊を下げるように、人の首をたくさんぶら下げて戦をしていた絵がのこされているように、武将としても大変強かった。ムスコ氏にはぜひ実力をもってばさらを目指していただきたいものだね。

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