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23 中学二年生 先生との出会いと、聴くこと

部活に生活を捧げる毎日。私は寝ても覚めても吹奏楽のことばかり考えていた。中学二年生に進級すると同時に、当時地元では大ニュースになった、近隣の吹奏楽競合三校の先生が、赴任校をシャッフルすることになった。うっすら勘づいていたものの、教員の移動は、年度末ギリギリに発表される。ショックだったし、次の先生も噂では聞いていたので、不安でいっぱいだった。私の中学校は、同じ市内の強豪校を率いていた女性の先生に変わった。学年が一つ上がったこともあり、部活動の中の妬み合いも緩やかに増えたり、減ったりしながら日常を過ごしていた。先生が変われば部活のカラーも変わる。上級生はそのギャップを感じながらも、先生に決して反抗することなくなんとか思いに応えようとしていた。

赴任してきた音楽の先生は、とても魅力的な先生で、音楽的にも人間的にも、私の中で憧れの的だった。先生は、小柄な方だけれど、ものすごくパワーがあって、いつもエネルギーに満ち溢れていた。なんでもハッキリと物を言う人で、思春期の中学生に、真正面からぶつかってきてくれる、素晴らしい先生だった。先生の好きなキャラクターが、アラジンのジャスミンで、強くて、自律した女性の象徴であることをいつも話していた。だから私も、ディズニープリンセスの中では、ジャスミンが好きだ。 そんな先生のもとで学んでいると、部活動を指導する先生の姿が好きで、自分の中で、音楽の先生になりたい気持ちが湧いてきた。音楽の先生になるには、音楽の専門の大学であったり、高校に行けばよいことは理解していた。先生の前任校の生徒さんに、芸高にいった優秀な人の話を聞いたので、「芸高に行くには、どうしたらいいですか」と、勇気を持って質問した。芸高はあなたは無理よとはっきり言われた。流石に今から芸高は無理かな、とは思っていたけれど、はっきり言われると、それなりに落ち込む。その人の演奏を実際に聴いたことがあるわけでもないし、レベルがどのくらいかもわかっていなかったけれど、才能ってやっぱりあるんだなとそのときは思っていた。

芸高に行けなくても、努力するだけ、努力してみようと心に誓った。
その先生の強力なコネクションによって、部活の環境もガラッと変わった。外部講師が週末頻繁にきてくれて、それぞれの楽器ごとのレッスン。バンド全体の音づくりを見てくれるバンドトレーナーの先生もいた。頻繁にレッスンしてくれた先生は、演奏家というより職業音楽家というように私はとらえていた。その頃には、フリーランスという言葉も知っていたので、きっと先生も、毎日違う場所で指揮を振ったり、教えたりして、生計を立てていたのだろうと思っていた。いいなあ、音楽で生活するなんて、とぼんやり思っていた。バンドトレーナーの先生は、とても独特の雰囲気がしていて、タバコと香水の香りが印象的で、大人の音楽家という感じだった。教育現場には絶対いない、容姿と自由感が漂っていたので、なおさらそう思ったのかもしれない。

先生はレッスンだけでなく、生徒に対して、惜しみなくリソースを共有してくれた人でもあった。先生の私物のCDを何百枚も学校に置いてくれて、それを自由に持って帰って、勉強してよいことになっていた。そこから気になる曲を見つけ出して、毎日のように家に持って帰り、聴いたり、気に入ったものはCDに焼いて保存するを繰り返していた。そのときに聞いた曲は、今でもサブスクから探し出して、結局ずっと聴き続けている名盤ばかりだ。

今では、浴びるようにして音楽をサブスクから参照することができる。音楽との出会い方も変わってきた。今では、なんとなく音楽を聴いていることが多いように思う。なんとなく、その場所、雰囲気や、気分で音楽を聴いている。というか、雑音から逃れるための背景にしている。中二のときの、私の音楽を聴く行為は、たくさんあるCDの中から、ジャケットを見て、フィーリング面白そうか判断して、家に持ち帰り、面白かったなとか、なんとも思わなかったな。とか、時間をかけて音楽を味わっていた。興味すら持っていなかった、クラシックに、CDをとおして出会い、何が面白いのかわからないけれど、色々聴いてみることを繰り返しているうちに、同じ曲でも、このオーケストラの音好きだなあ、同じフルートでも、こんなに人によって音色が違うんだとか、大音量で流して、一緒に演奏してみたりして、真似をして上
手になった気になってみたり、音楽を聴く耳を育てていたと思う。

イヤフォンのノイズキャンセリングで聴く音楽も、雑音がなくて没頭できていいけれど、やっぱり大きなコンポで、演奏が始まる前の数秒のスーって音から聴きたい。生演奏とは違うけど、いい体験だと思った。誰も使わなくなって押し入れにあったコンポ。引っ張ってきた。


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