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33.螺旋(3)- iii、巨人の間

「31.螺旋(3)- i 」「32.螺旋(3) - ii 」にて、マントヴァという小都市にあるパラッツォ・テ(テ宮殿)の一室、「巨人の間」の装飾を見てまいりました。

今回と次回は、そのおまけで、マントヴァについて、パラッツォ・テについての補足情報と、そして最後に巨人の間の「落書き」(!)についてです。

(図1)

33, パラッツォ・テ、ジュリオ・ロマーノ、マントヴァ、巨人の間、北、らくがき、scritta1

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1.マントヴァのパラッツォ・テ


マントヴァは、2008年7月にユネスコ世界文化遺産「マントヴァとサッビオネータ」(サッビオネータもゴンザーガ家の領地)として登録されてからは、観光業に一層の力を注ぐようになりました。とはいえ、日本ではまだあまり知られていない都市です。

イタリア語表記でMantova(マントヴァ)、英語表記ではMantua(マントゥア)となります(「(伊)Veneziaヴェネツィア/(英)Veniceヴェニス」と表記が変わるのと同じことです)。


(1)どこ?: マントヴァ


マントヴァはイタリアのどこにあるかと申しますと・・・


(図2)

33, イタリア、地図、キャプチャ

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ここです。

(図3)

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北イタリアです。ミラノとヴェネツィアの間あたりにあります。

大抵の観光客は電車で、ヴェネツィアからヴェローナで乗り換えて入るか、ミラノから乗り換えなしで、入ります。
ただ、どちらから行っても2時間くらいかかります(そして電車の本数が少ないです)。よほど目的があって目指していく人でなければ、ちょっと観光ルートには選びにくいかも知れません。
(ミラノから見たマントヴァは、東京から見た「日光」みたいなイメージでしょうか。行ったら行ったで素晴らしくて「来てよかった!」ってなるんだけど、まずその前に、ちと遠いな~、的な・・・?。)


(2)どこ?: パラッツォ・テ


マントヴァの地図です。三方を水辺に囲まれています。

パラッツォ・テはどこにあるかと申しますと・・・


(図4)

31, キャプチャ, mantova map


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ここです(赤色円)。

(図5)

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行政の中心エリアはパラッツォ・ドゥカーレ(公爵宮殿)周辺です(図5の黒色円)。公爵宮殿は、政治・経済・一般行政の中心であるばかりでなく、君主ゴンザーガ家一族の通常の住居を兼ねていました。

一方、その反対側に、政治・宗教からは文字通り距離を置いた「離宮」として、パラッツォ・テが作られます(図5の赤色円)。
もともとこのエリアは沼地だったのですが、そこを整備してフランチェスコ(フェデリコ・ゴンザーガ2世の父)が馬小屋と馬場を作っていました(当時マントヴァのは「名産品」として非常に有名で、毛並みのよい高級な競馬用の駿馬が各地に輸出されていました。中国のパンダ外交のように、マントヴァにとって駿馬は時に政治的手札の一つでもありました)。
フェデリコ・ゴンザーガ2世はここに、自分好みの別荘、豪華なパラッツォ・テを建造させることを決めました。

当初は、愛人との気兼ねない密会場所として着手されましたが(彼が独身時代にイザベッラ・ボスケッティ(通称ラ・ボスケッタ)という人妻を「愛人」としていたことは、大変有名でした)、のちには、公爵の公式な外交場所、もてなしの場となりました。公爵位を授けてくれたカール5世も、ここパラッツォ・テで、もてなされています。

この二つのエリアは、「ゴンザーガ枢軸」と呼ばれる、南北にのびる、マントヴァ都市造成史上、最も重要視された幹線道路で繋がっています(図5の青色線)。

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現在の観光客も、主にこの主軸を中心に二つのエリアを回ります。
パラッツォ・ドゥカーレを見学し、途中いくつかの観光名所を覗きながら「ゴンザーガ枢軸」の道を南下し、最後にパラッツォ・テを見学する、というコースが一般的です。


(3)どこ?:巨人の間


パラッツォ・テ(テ宮殿)の航空写真です。写真左が南側です。

「巨人の間」がどこにあるかと申しますと・・・


(図6)

33, 図6、マントヴァ、パラッツォ・テ、ジュリオ・ロマーノ、Aerial-wiew-of-Palazzo-Te-in-the-suburbs-of-Mantova-Italy-image-from

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ここです(図7の赤円内)。

(図7)

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(地図引用元:OnTheWorldMap, FreePrintableMaps: Mantova Mappa/ Italia/ Mappe di Mantova


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図8は、18世紀の平面図です。
「巨人の間」は、ロの字形の建物の南側の東端の角にあります(赤色円内)。

(図8)

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この平面図からも、以前お話しました「開口部」、すなわち

・入口(北壁)
・出口(西壁)
・窓二つ(東壁)

が、確認できると思います。

巨人の間は、カール5世の来訪時には「天井に見えますゼウスはカール5世様を表しております。カール5世様がプロテスタントの奴等を雄々しく蹴散らし大勝利を収めるというさまを、ギガントマキアの主題で象徴させて描かせておるのでございます。」という図像解釈で、「お・も・て・な・し」に使われたようです。

さらに、巨人の間は、レクレーションの場としても用いられた記録が残ります。
図8の地図を見ると、隣に「ラケッタ場」があるのが判ります(図8、青色矢印)。巨人の間は、ラケッタ遊びの控室としても利用されていました。
当時、君主や王侯貴族、宮廷人たちは、たしなみや外交の一つとして「ラケッタ」(ラケットを持ってボールを打つテニスのような遊び)をすることがありました(アメリカ大統領が来日すると日本の首相はすぐにゴルフでもてなそうとしますが、あれと同じです)。

(図9)

33, テニスに歴史、ジュドポーム、フランス、Wikipedia、cc、Jeu_de_paume

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長くヨーロッパの上流貴族の模範的生活の指南書として親しまれたバルダッサーレ・カスティリオーネ著『宮廷人』でも、貴族の行うべきレクレーションの一つとしてこの種のボール遊びが推奨されています(注1)。

カール5世も、1530年にここでラケッタ遊びをしています。ゼウスのポーズは、カール5世がラケッタのゲームでボールを打ち返している姿を表しているという珍説(?)もあります(注2)。

(図10)

33, 31, マントヴァ、パラッツォ・テ、ジュリオ・ロマーノ、巨人の間、ゼウス、palazzo  te  mantova giulio romano sala dei giganti 5 vault zeus up

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2.フェデリコ・ゴンザーガ2世とジュリオ・ロマーノ


ゴンザーガ家がマントヴァを統治するようになったのは14世紀以降です。

長らくマントヴァは侯国でしたが、1530年、著名なマントヴァ侯妃イザベッラ・デステの息子フェデリーコ・ゴンザーガ2世 (1500年 - 1540年)がようやく同家悲願の公爵位を得て、マントヴァ公国 が成立しました(侯爵より公爵のほうが上位)。

これはティツィアーノの描いたフェデリコ・ゴンザーガ2世の肖像画です。パラッツォ・テおよび巨人の間の注文主です。

(図11)

33, ティツィアーノ、フェデリコ・ゴンザーガ2世の肖像、federico gonzaga tiziano

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このフェデリコ・ゴンザーガ2世は、複雑な政治的理由により、少年時代の数年を人質としてローマ教皇庁の宮廷で過ごしました。

ラファエロの大活躍していた最も華々しい盛期ルネサンス時代のローマにおける芸術パトロネージのありようを間近で見ていたフェデリーコ2世は、長じて、ラファエロの一番弟子であったジュリオ・ロマーノ をマントヴァ宮廷付芸術家として招きます。
そして、マントヴァに来て間もないジュリオ・ロマーノに、さっそくパラッツォ・テの建造と装飾を注文します。公爵は、ジュリオ・ロマーノに対して、食器デザインから建物の建造と装飾まで、実にさまざまな注文をしました。

恐らく彼の中では、ジュリオ・ロマーノとその芸術の力を用いて、「教皇ユリウス二世:ラファエロ」の関係を「自分:ジュリオ・ロマーノ」の関係へ読み替え、マントヴァを「第二のローマ」に仕立て上げたいという野望があったに違いありません。

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これは、ティツィアーノが描いたジュリオ・ロマーノの肖像画です。建築デザイン素描を手にしています。

(図12)

33, ジュリオ・ロマーノ、マントヴァ、ティツィアーノの肖像画 13romano

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巨人の間のフレスコ画は、実際には、ジュリオ・ロマーノのみならず、彼と彼の弟子や協力者から成るチームによって、1526年から1534年に描かれました。
ジュリオ・ロマーノのマントヴァにおける筆頭弟子はリナルド・マントヴァーノ(マントヴァ、16世紀生まれ‐1546以前没)という画家でした。
ローマにおける「最高の師ラファエロ:特別愛された高弟ジュリオ・ロマーノ」のような関係を、マントヴァで「ジュリオ・ロマーノ:リナルド・マントヴァーノ」が結んでいたことが知られています。しかしこの弟子リナルドは早世してしまいました。

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ヴェネツィア派の画家ティツィアーノの他の作品については、これまでの「6.」、「18.」「19.」「20.」、「25.」「26.」「27.」など、いくつかの記事で触れています。


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やがてゴンザーガ家は没落し、マントヴァはオーストリア占領下におかれました(1630年、マントヴァ併合)。さらにフランス軍に支配された時期、再びオーストリア占領下になった時代などを経て、最終的にイタリアという統一近代国家の中へと組み込まれるに至ります。


(次回に続きます。)


最後までお読みいただき、どうもありがとうございました。


(注1)「Ancor nobile esercizio e convenientissimo ad uom di corte è il gioco di palla, nel quale molto si vede la disposizion del corpo e la prestezza e discioltura d’ogni membro, e tutto quello che quasi in ogni altro esercizio si vede.」「宮廷人にとってもう1つの高貴で最も便利なエクササイズは、ボールのゲーム( gioco di palla )です。このゲームでは、体の配置、各四肢のスピードと使いやすさ、および他のほとんどすべてのエクササイズで見られるすべてのものを見ることができます。」 この「gioco di palla」が、テニスの原型的な競技を指すそうです。Baldassarre Castiglione - Il libro del Cortegiano (1528), Libro primo, Capitolo XXII. 
ところで、愛人ラ・ボスケッタは、この『宮廷人』の著者カスティリオーネの姪なのです。
以下、完全に余談ですが。。。

「愛人」なんて言うと、どこぞの王室みたいに「うら若き王子様が人妻の年増女に騙された」みたいな印象を受けるかもしれないのですが、実際は異なります。フェデリコ・ゴンザーガ2世とボスケッタは同い年で、お互いが16歳の時に出会っています。出会った時にボスケッタはすでに結婚していたのです。パラッツォ・テの初期の構想は「二人の愛の巣」なので、他の部屋には「神話画」を口実としたあからさまにエロティックな装飾(例、図13)が数多くあります。のちボスケッタはフェデリコ・ゴンザーガ2世の子を産み、認知騒動なども起こりました。

(図13)

33, ジュリオ・ロマーノ、プシュケーの間、パラッツォ・テ、マントヴァ、1south5

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(注2)Gianna Suitner, Chiara Tellini Perina, Palazzo Te in Mantua, Electa, 1990, Milano, pp.98-110. esp. pp.107-110. 

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落書きの図版(図1)の引用元リンク
Scritte sugli affreschi nella camera dei Giganti (palazzote.it)
( Ugo Bazzotti, Scritte sugli affreschi nella camera dei Giganti, in “Gazzetta di Mantova” nel febbraio 2002 )


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