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「毒親育ち」と言っても色々あるけれど

「毒親」という言葉が広く認知されることになったのには、1989年、スーザン・フォワードの『毒になる親』の出版がきっかけ。
「毒親」は学術用語ではなく、スーザン・フォワードは書籍中で「子どもの人生を支配し、子どもに害悪を及ぼす親」と定義している。

儒教や家父長制の影響が強く、「親が上、子は親に従うもの」という思想が染みついている日本において、「毒親」という概念の導入は画期的なものだったと思う。
令和の世でさえ、親を批判する子に対して、世間は眉をひそめる。
私の周囲では、未だに「親は子のことを思ってしているのだから」という言葉が公にまかり通っている。

暴力も
人格否定も
抑圧も

「子どもを愛してない親なんていないんだから」
の一言で正当化される。
彼らの常識からすれば、親を批判する子のほうが狭量なのだ。

他人であれば、離れられる。
だが、家族という存在は、合理的な判断だけで割り切れるものではない。


愛と憎しみはコインの裏表。

愛してるからこそ、憎い。
憎いからこそ、離れられない。
そんな矛盾した思いが渦巻いているように思う。

少なくとも、私と両親の関係はそうだ。

「うちは両親とも毒親で……」
という言葉は、他者に自分の成育環境を簡潔に説明する分にはとても便利だ。
便利なだけに、誤解を生みやすい。


これまで、「私も毒親育ちだから、気持ちが分かる!」と言ってくれる人がたくさんいた。

けれど、人によって親との関係はまちまちだ。
一括りにできるものではない。
たとえ、同じ両親の下に生まれた兄弟姉妹だったとしても、生まれ順や、その子の性格によっても、大きな違いが出る。


厳格な親
過干渉な親
無関心な親

が、即ち

肉体的虐待をする親
精神的虐待をする親
ネグレクトをする親

であるとは言えないだろう。

程度の問題もある。


どんな人でも、
子ども時代に自分が望む愛情を
完璧に親から与えられたという人はいないはずだ。

親は神ではないから。


でも、その状況や感じ方、受けた影響は様々だ。

だからこそ、安易に差し伸べられる共感には警戒してしまう。

その人が親との関係において傷ついたのは事実だろう。
だけど、その傷つきの程度は他の誰かと同じではない。

「親なんて関係ない」と言い切って
若い頃から好き勝手に生きることができた子と、
どんなに憎しみを抱いていても
親から離れることに強烈な罪悪感を刷り込まれた子とでは、
土俵が違うのだ。

その可能性を見ることもなく、
「いつまで親にとらわれるの?」とお説教してくるのは、
ひどく残酷だと思う。

深刻な状況であればあるほど、
本人は他者に話さない。
話せないのだ。

本当は一番愛してほしくて
理解してほしかったはずの親本人から
致命的な傷を負わされているのだから。


思い切って話してみたところで、
眉をひそめられるか、
「過去は関係ない」と言われる経験を
嫌というほどしてきたのだから。


プロを標榜しているカウンセラーやセラピストにも、そういったことを言う人がいた。
また、本人も本当の意味ではまだ乗り越えられていないのかなと感じる人も多かった。
(そういう場合には、余計に傷つきが深くなる)

個々の事情に配慮すればするほど、何も言えなくなる。
しかし、語らなければ認知されないこともある。


だから、私はあくまでも私のケース、それに対する私の思いや感じたことについて書きたいと思う。

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