ラベリングという呪い

 大学の授業で、ラベリング理論について勉強しました。ラベリングとは言わばレッテルを貼ることで、「あなたは〇〇だ」というように他者に向けられるものもあれば、「自分は〇〇だから」というように自分に向けられるものもあります。

 ラベリングをすることはある意味「呪いをかける」ようなことであると感じました。例えば、他者から「あなたは〇〇だよね」とラベリングをされたけれど、ラベリングをされた本人が自分ではそう思っていなかったら、「自分は〇〇でなくてはならない」と自己の在り方を押し付けられているように感じるかもしれません。他者から受けたラベリングと、自分自身の自己評価の間に差異があればあるほど、ラベリングは「呪い」になっていくのだろうと考えました。

 私がそんなふうに考えたきっかけとなったのは、自己評価の低い友人の存在でした。「あなたに『なんでもできるすごい人』だと思われるのがつらい。僕はあなたが思うほどすごい人間じゃない。」と彼は私に話しました。たしかに私は彼を尊敬していて、「なんでもできてすごい」とよく彼に言っていました。彼は私によって「なんでもできるすごい人」というラベリングをされているけれど、彼は自身のことを「なんでもできるすごい人」だとは思っていないようです。彼は続けて、「『なんでもできるすごい人』と言ってくれるあなたの前では『なんでもできるすごい人』でなくちゃいけないんだって思う。」と話しました。「〇〇だね」とラベリングを受けた人は、ラベリングの裏に潜む「〇〇であってほしい」という期待を感じ取り、「期待に応えなくてはいけない」と感じます。彼は、自己評価が低いためにその期待に応えられる自信がなく、「なんでもできるすごい人」というラベリングは彼にとって「呪い」になってしまっているようです。

 彼のように、周囲から受ける認識(ラベリング)と自分自身の認識がかけ離れているとき、ラベリングを受けた本人は心理的な負担を感じるのだろうと考えました。「なんでもできるんだね」なんて褒め言葉も、時には「呪い」になってしまいます。彼の場合は周囲からの評価より自己評価の方が低かったけれど、逆に自己評価が周囲からの評価より高い場合にも、「みんなが私の本当の能力をわかってくれない」と感じ、マイナスの感情を呼び起こすのではないかと思います。私たちは安易に「あなたは〇〇だ」と他者をラベリングしようとしてしまうけれど、不当なラベリングは相手に負担をかけることに繋がりかねないので注意した方が良さそうです。

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