打倒「私、人見知りなので」

 大学の図書館で、面白そうな本に出会いました。古宮昇さんによる『人と会うのが楽しみになる心理学 一緒にいてラクな人 疲れる人』という本です。とても興味深い内容であっという間に読み終えてしまいました。その中で「『私人見知りなので…』と言う人」について言及されていました。これは「『一緒にいて疲れる人』になってしまう要素のひとつは、自分から与えようとしないことである」ということの例として出てきたもので、この本の本題を表しているわけではありません。しかし、私自身が以前よく使っていた言葉だったので印象に残りました。

 中学や高校の新学期。新しいクラスの自己紹介で、「結構人見知りなので、たくさん話しかけてくれると嬉しいです」と私はよく言っていました。古宮さんは本の中で、「私、人見知りなので」と言うのは、「自分からは何もしないけど、みなさんは私に話しかけてください」と言っているのと同じだ、と説明しました。私は自分がよく言っていた「私、人見知りなので」の中に、こんな意識が表れていたのか、と気づきました。確かに、こんな自己紹介をされても、人見知りです(=初対面のあなたに対して警戒しますよ)と自ら言っている人にわざわざ話しかけたいと思わないし、話しかけろと言われてもどんな話題で話したいのか分かりません。話しかけてほしいというわりに、はじめからコミュニケーションを取りたいという意思が見られません。

 大学に入ってからは、無自覚のうちに「私、人見知りなので」宣言はしなくなった気がします。その代わりに、「○○が好きです。同じ人がいたら話しましょう」と、少しだけ自己開示をするようになりました。「私人見知りなので」を辞めた理由は自分でもよくわかっていませんでしたが、この本を読んで納得しました。

 自己開示をすることは、とても難しいことだと思います。「私、人見知りなので」も、自分の素性を知られることへの躊躇いや、「仲良くなりたい」という意思を突っぱねられるかもしれないという不安の表れであると考えられます。自己開示を受け入れて貰えるかどうか不安に思ったときに、自己開示を諦め、他人へ一方的に自己開示を求めたくなってしまうのかなと思います。

 「初対面で受け入れてもらえないことはそうそうないし、万が一ここで相手に受け入れてもらえなくても大丈夫」と思えるようになったことで、私は「私、人見知りなので」をやめられたのではないかと思います。私の場合は、「ここでならどんな自分も受け入れてもらえる」と安心できるコミュニティを持つことで、別のところでは「受け入れてもらえなくても大丈夫」と思えるようになりました。前者のコミュニティがある意味逃げ場というか、安全基地的な役割を果たしているような感覚です。それは家族でも、友人でもなんでもいいと思います。安心して戻ることができる場所があると思うだけで、新しい人付き合いに挑戦しやすくなるような気がします。

 堂々巡りのようになってしまいますが、安心して所属できるコミュニティを作るには、そのコミュニティの中で自己開示をして、無条件に受け入れてもらえた、という成功体験が重要であると考えます。自分が安心できる場所を作るためには、自己開示をする勇気をちょっとだけ持ってみることが有効だと思います。ちょっとの勇気で「私、人見知りなので」を脱却できる人が増えていけばいいなと思います。また、自己開示の勇気を持てずにいる人に出会ったら、私は「無条件に受け入れる勇気」を持ちたいなと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?