日本人「未来」好きすぎ問題
「こども家庭庁」関係のニュースを開いたら「自民党『こども・若者』輝く未来創造本部」という文字列が目に飛び込んできて思わず吐き気を催した。
キラキラ感が溢れ出ているだけではない。そもそも論として日本人は「未来」(ミライ)という言葉が大好きなのだ。この政党の政策本部やら自治体の名前やらといったお上関係から、どこいその店に施設にJポップの歌曲のタイトルやら歌詞や映画とかドラマのタイトルや広告に至るまで、とにかくみらい、ミライ、未来。未来が溢れかえりすぎている。みな過去を顧みることもなく現在をひたすら生きることもなく、あるかもないかもわからない未来に全てをかけているかのように。そういえば日本ではこの風潮はいつ頃からあるのだろう。「日本の未来はウォウウォウウォウウォウ 世界が羨むイェイイェイイェイイェイ」と歌っていても実際は先行きが暗くなってきた1990年代〜2000年代から?
しかしここまで日本人が「未来」に執着するにも関わらず、面白いことに日本語には未来形がないのだという。たとえばこの英語を使う在日外国人向けのブログによると、以下の記載がある。
How to Talk About the Future in Japanese (GaijinPot Blog)
前々から日本語では英語などの未来の表現を訳するのに推測(~するだろう)や意志(~するつもりだ)と訳しているから未来形なんてないのではと思ったが、ガイジンさんにもしっかり書かれちゃってるじゃん。これでは『主語を抹殺した男』なる本が昔流行ったが今でなら『未来形を抹殺した奴』が出てきてもおかしくないだろう。
まーわたしゃパンクとは言えない身なのでNo futureとか言わないけどさ、でも自分が生きているかも死んでいるかもわからない未来のことを考えるより今を生きることが大事だと思うのよ。なんならこんな状況の中で言うべきことじゃないと思うけど、私って小さい頃には人類は1999年とか近い未来に自分諸共滅びるかもしれないって本気で思ってたんだよ?
(画像と本文は関係ありません)
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