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映画感想文『サウダーヂ』(または乾いた笑いの意味するもの)

私が2022年の今でも忘れられない映画の中に、富田克也監督・空族制作『サウダーヂ』(2011年、日本)がある。初上映の頃は気になっていたもののバタバタしていて観る機会がなかったが、それから3年後に渋谷のとあるイベントで上映されたのを観た。『ここは退屈迎えに来て』『あのこは貴族』の山内マリコ氏のトークが前座にあったのを覚えている(内容はうまく思い出せないが、後述の地方の閉塞感みたいな話だったと思う…)。

物語の中心にいるのは、山梨県甲府市で土木作業員をして生計を立てている男たち。ある男はタイパブに通い詰め、ある男はゼノフォビアを抱きながらも在日ブラジル人の一団とラップバトル、またある男はドラッグに目覚める…。
しかしこの作品にぬるぬるとまとわりついているのは、外国人労働者の流入やそこから引き起こされたかのような排外主義や、土木作業員の抱える貧困や差別などの問題ではない。それは地方都市の閉塞と「東京」という絶対的存在との力関係であり、これらの問題はその副産物にすぎない(この映画に登場する在日ブラジル人やタイ人他外国人、ないし映画から離れても昨今の技能実習生をめぐる問題もここから来ているとも思える)。
甲府市からは車なら甲州街道で、電車でもJR中央本線一本で1時間ちょいあれば立川くんだりへ、2時間もあれば都心へ出られてしまうがため、地元に住んでいても「東京」を嫌でも意識せざるを得ないようだ(実際ある女性が話すそういうセリフが劇中にあった)。山梨県を中部地方に括ってしまえば、進学や就職のデスティネーションとして名古屋というオルタナティブも考えられるだろうが、実際は車と電車のどちらでも片道3-4時間、あまりにも非現実的だ。進路といっても登場人物の面々のように地元に根を下ろすか東京に飛び出すしかない。
…おや?私が十数年間住んできた栃木県とほとんど変わらないではないか。白河関を越えて隣の福島県まで行けば自ずと「東北」という括りから仙台というオルタナティブが見えてくるが、栃木には東京という絶対的存在しかない。高校生の主な進学先は圧倒的に都内の大学か地元の宇都宮大学(駅弁大学の一つ)であり、「相対的な都会」「(東北というだけで内心は関東たるワレワレより格下ではあるけど)人口も多いし政令指定都市だからとりあえず頭を下げておく対象」の仙台にある東北大学に進学する人もいるにはいるが彼らに比べたらまだ少ない。就職となると(学歴問わず)より選択肢は狭まる。東京へ出て行くか、さもなくば地元に骨を埋めるのが大多数だろう。そして後者を選んだとしても、東北本線(JRと宇都宮市民は宇都宮駅以南を福島県民のブーイングを受けてもなお「宇都宮線」と呼んでいるらしい)の先にある「東京」を意識せざるを得ない。
いささか長くなってしまったが(関係者各位や甲府市民のみなさんには大変申し訳ないが)このことに気づいてから映画を観ている間ずっと乾いた笑いを堪えるのに必死だった。なあんだ、ここに出てくる風景も住民の抱える閉塞感もみんな宇都宮と似たようなものじゃん。しかしこの乾いた笑いは感情で言えば何に当てはまるのか。嘲り?悲しみ?それとも怒り?
しばらく答えは出せそうになかった。

映画から離れるが、最近買った信田さよ子氏の『さよなら、お母さん 墓守娘が決断する時』を読んでいたときにも似たような笑いが要所要所で出てきてしまった。特に娘が母親に「愛情」の皮を被った理不尽な仕打ちを受けるエピソードでそれが堪えきれなかった。普通の読者ならああいうのを読むとヒッとなって心臓が締め付けられる思いがするはずなのだが、「ああ、これ、うちにも昔からあるなあ、あはは」という感じで笑いが溢れるのだ。
乾いた笑いというのだからそこには涙はない。当事者として、体験者として、馴染みがある「ダメなもの」「不快なもの」「内心許せないもの」でありながら「それでも自力での解決が難しいもの」やそれに似たものを見てしまったときの、呆れや諦観にも近いあの感情がある。『サウダーヂ』を観たときのあの笑いはこれから来ていたのか!ヘウレーカ!

ここ数年は疫禍で日本を離れることも実質不可能になり、自分自身も日本国外から国内の、それも地方へ目線が向き始めた今日この頃。そこで、できれば私はこの映画を、映画館でなく制作側の配信でもいいからもう一度観たいところ(昨年の配信は見逃してしまった。残念)。でもまたどこであれ観出したらあの乾いた笑いが溢れ出てきてしまうだろう。そう考えると悲しくなってくる。

(写真は栃木県民にとっての「相対的な都会」仙台市の風景です)

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