「子どもに~させる」という言い方が嫌い
「どんな習いごとをさせたいですか?」「子どもが何歳から英語をやらせますか?」なんて質問を、アンケートなどでよく聞かれる。
子どもができるまでは普通に「親がやらせるものなんだろう」と思っていたが、生まれてみるとそんなことはないと痛いほどわかった。
子どもはひとりの人間で、親が思うとおりになんて動いてくれないのだ。
なぜ「やらせることができる」と思っていたのか?
そもそも、なぜ子どもに「やらせる」なんて思っていたのだろうか。そもそも、それまで誰かに何かを「やらせる」という方法で成功したことなどあったのだろうか。
もしかしたら、子どものころ「やらせられていた」からそう思っていたのだろうか。
でも、私自身は「やらせられていた」という習いごとはなかった。自分でやりたいといってやっていたし、やりたくないと思ったらやめた。
もしかしたら会社に所属していた頃の仕事では「やらなくてはいけない」ことを「やらされている」と捉えていたこともあったかもしれない。ただ、それにしてもあまりうれしくない言葉だ。
「ママの言うことを聞いて」を決して言わない
「先生の言うことをよく聞いてね」「ママの言うことをちゃんと聞くこと」なんていう教えがある。
「言うことを聞く」という言葉は「耳を傾ける」という意味ではなく「言ったことに従う」という意味だ。そうなると、先生の言ったとおりに従う、親の言うことに従う、という意味になる。なんだか、よい子のように思える。
だけど、私は昔からその言葉には疑問があった。「先生であれ親であれ、誰かが言ったことに対して、何の疑問も挟まずに従う人間ってどうなんだ?」と思っていた。
つまり、先生だって親だって、間違っていると思ったら従ってはいけない。そういう教えのほうが正しいんじゃないだろうか。
「どういう大人になってほしいか」と考えたら、思考停止で誰かの指示に従うのではなく、自分で考えて判断する人になってほしい。そう考えると「言うことを聞いてね」という言葉とは矛盾する。
実際問題、その場その場では言うことを聞いてほしいと思ってしまう。「静かにして」と言うのは静かにしてほしいときだし、「出かける用意して」と言ったらすぐに動いてほしい。
ただ、その場その場の判断ではなく、「先生の言うことをすべて聞きなさい」とルールとして教えてしまうのはおかしいのではないだろうか。
子どもは言った通りには動かない
「やらせる」「言うことを聞きなさい」のどちらも、子どもの意思を無視した言葉だ。
子どもを持ってわかったけれど、小さな子どもでも、とても強い意志がある。(これは人によるのかもしれない。少なくともわが子にはとても強い意志がある)
だから、大人の思うとおりに「やらせる」なんてことは基本的にできないし、できるとしたら子どもが何か無理をしているか、奇跡的に、親がやってほしいことと子どもがやりたいことが合致したケースだろう。
親は、子どもがやりたいことを見つけて、それを後押しするしかできないのではないだろうか。あるいは、やりたいことに出会えるように、適度な情報提供をするくらいしかない。(過度になるとこれも嫌がる)
子どもに何かをさせるという考え方は、我が家ではとっくに捨ててしまった。
友だちに言うように「一緒にやらない?」と誘ったり、「これをやってほしい」とお願いしたりする。
そんな感じで、我が家は子どもとやりとりしている。子どものタイプにもよると思うので、正解はわからないけれど。