ひと月の猶予

「あそこ行こうか、横浜」
元旦の朝、突然彼女は言う。横浜といっても、いろいろあるけど?
「ほら、海の見える……だっけ?」
「港の見える丘公園?」
「そうそう」

今日は2017年1月1日。年が明けたばかり。どうしてそんな日に、僕がプロポーズした思い出の場所に行こうなんて言うのか。結婚して10周年? いや、まだそんなに経っていない。何かの区切りがいいとも思えない。見たいものでもあるのだろうか。

僕自身は横浜に全く土地勘がなくて、プロポーズした日も初めてその公園へ行った。その日にプロポーズしようと考えていたわけではなく、デートの途中、なんとなく言いたくなったんだった。もちろん、結婚したいとは前から思っていたけど。
それからずいぶん経っている。僕はやっぱり駅からの道すら覚えていなかった。
僕たちはたくさんあるベンチのひとつに腰かけて、コンビニで買ったコーヒーを飲んでいた。

そこから先は、断片的にしか覚えていない。

「言いたいことがあって」
「突然で悪いんだけど、別れて欲しいの」
「理由は……うまくいえない。小さなことの積み重ね」
「どこを直せばいい、というわけではないの」
「ずっと言おうと思ってて。でも、衝動的に言ってしまわないように、この日、この場所で、って決めていたの」

30分くらいにも思えるし、2時間くらい話していたようにも思える。
彼女は、暮らすのに困らない程度の荷物をすでに実家に送り届けていると言い、そのまま僕らの家には帰らなかった。
何が何だかわからないまま僕は家路に着いた。彼女のクローゼットを見るとすかすかになっていて、何着かあったコートは全てなくなっていた。僕は一緒に暮らしていながら、そんなことにも気がつかなかったのだ。
僕はひとりでビールを飲みながら、リビングのソファで寝てしまった。

朝、目が覚めるとベッドにいた。外が明るい。
おかしい。ソファで寝たはずなんだけど。
さらに記憶をたどれば、一緒に住んでいた妻は昨日家から出て行ったのだった。
なかなか起きる気にはなれなかったが、昨夜何も食べていなかったからかひどく空腹だった。耐えられずリビングへ行った。

なぜか彼女がキッチンにいて、料理をしていた。
「ああ、おはよう」彼女は何もなかったように言う。
「え、どうして……?」
「ああ、今日の予定がクライアントの都合でなくなってね。泊まる必要がなくなったから、昨日の夜帰ってきてたの。あなたもう寝てたから起こさなかった」
このやりとりには、覚えがある。間違いなく、まったく同じ会話を交わした。彼女が一泊の予定で出張に行ったが、急遽予定が変わって日帰りになったのだ。あれは、いつのことだったか。
僕はカレンダーを見た。壁に貼ってあるのは去年のものだった。11月30日から12月1日に線が引かれ、その下に「大阪出張」と書かれていた。心臓が、ドクン! と打った。声が震えないよう慎重に言う。
「今日、何日だっけ?」
「今日から12月。早いね」
昨日は元旦だったじゃないか。これは何だ。映画みたいなあれか。タイムトラベル。
いや、彼女が僕をからかっているんじゃないか。昨日の離婚宣言から、すべて嘘だったんじゃないか。
付いていたテレビから声がする「今日から師走ですね〜」。
彼女がからかっているなら、テレビに映っている番組は録画かもしれない。レコーダーを見た。でも、電源は入っていなかった。録画じゃない。
やはり僕は、離婚を突きつけられる1カ月前に戻ったのだ。夢かもしれない。やり直したいという衝動が、そんな夢を見せているのかもしれない。だけど、この感覚は夢じゃない。

僕は、チャンスを与えられたのだ。

「てことは、今日会社ある?」
「当たり前じゃない。まだ木曜日」
時計を見ると時間ぎりぎり。僕は彼女の作ってくれた朝食を急いで食べ、ダッシュで身支度をした。
「あれ、君は?」
「今日の予定が飛んだから、会社にはゆっくり行く」
そう言って彼女は2人分の食器を片付け、キッチンで洗い始めた。
「じゃあ、先に行くね」
「うん、いってらっしゃい」

考えろ考えろ考えろ。どうやったら、彼女に思い直してもらえるか。
彼女は小さなことの積み重ねだと言った。直せるようなものじゃないと言った。でも、直してみせる。だって僕たちは、お互い愛し合って結婚したんだから。

いつもの電車、いつもの駅。降りると、同僚の佐々木に会った。佐々木は去年離婚している。子どももいたはずだ。離婚の理由はちゃんと聞いたことがないが、今はこいつに頼るしかない。
「今日さ、久しぶりに飲みに行かない?」
「いいねえ」
さすが独身。二つ返事だ。

日中の仕事は、1回経験していることだから余裕だった。トラブルは事前にわかり、会議の内容もわかってる。一応会議には出るが、その間「離婚 原因」で検索し、問題を探しまくった。
わかったことはいろいろある。夫が家事をしない、夫が妻の変化に気づかない、夫が妻の話を聞かない、夫が妻に暴力を振るう。
まずい、暴力以外は全部自分に当てはまっている気がする。

佐々木を連れて行ったのは、二駅ほど電車に乗った先の焼き鳥屋。なるべく会社の人がいないほうがいい。
離婚した原因は、端的に言えば元の奥さんの浮気だった。なぜ奥さんは、浮気してしまったのか。
「俺が悪かったんだよ。小さなことの積み重ねなんだよな」
ああ、同じだ。具体的に教えてくれよ。
聞き出せたのは「今から思えば」と前置きをした佐々木の想像。
それは、ネットで読んだ記事と同じようなものだった。おそらく彼も、離婚を切り出されてからネット記事を読んだんだろう。

2軒行ってから家に帰ると、夕飯がテーブルに置かれていた。ああそうだ、飲んで帰ると伝えるのを忘れていた。明日の朝食べればいいか。
室内には、洗濯物が干してある。僕の分と、彼女の分。数日に1回は洗ってくれるから、そんなに溜まらない。

僕はその瞬間、ざわっと鳥肌がたつのを感じた。1秒前の自分を殴りたくなった。
彼女がうつむきながらぽつんとひとり、夕飯を作り、食べ、洗濯物を干す姿が目に浮かんだ。

僕は何年も、何をやってきたのだ。

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2017年1月1日。
僕にとっては二度目。いや、ここ1カ月、すべてのことが二度目だった。
「今日、どこか行く?」
ドキッとする。
「いいよ。ただ、洗濯機回して干してからでいい?」
この1ヶ月で、洗濯はほぼ僕の担当になった。朝食は彼女、夕飯は曜日ごとに担当を決めた。
「もちろんいいよ。ありがと」彼女は言う。
「あそこ行こうか、横浜。ほら、海の見える……だっけ?」
「えっ……港の見える丘公園?」
「そうそう」

1回目と同じだった。僕たちはコンビニでコーヒーを買って、あの日と同じベンチに腰かけた。
彼女は先月買ったばかりのグレーのコートに、真っ赤なマフラーをしてた。短めのボブによく似合ってた。1回目のこの日は、何を着ていたっけ。その頃の僕は、彼女を全然見ていなかった。
今になってやっと彼女のことがわかってきたのに、もう、じっくり見るのはこれで最後かもしれない。
「言いたいことがあって」
嘘だろ。
「まずは、ありがとう。なんか突然、家事とかいろいろやってくれるようになって。だけど」
僕はもう心臓が止まりそうだった。息苦しくて仕方なかった。あの悪夢がもう一度訪れるのだろうか。
だけどそうだ、もしかしたらもう一度チャンスがもらえるかもしれない。また1ヶ月前に戻るんだ。それでもっとうまくやるんだ。
「単刀直入に言うと、下手なんだよね」
「は?」
「ずっと言おうと思ってて」
それからは、僕の家事に対するダメ出しが続いた。洗濯物の分け方、干し方、たたみ方。食器の洗い方、洗った食器の重ね方。
その時に言ってくれよ! と思うけど、これが彼女なんだろう。言ってくれただけよかったじゃないか。
離婚を切り出されると覚悟していたから、思わず笑ってしまった。笑い始めたら止まらなくて、涙が出るほどに笑った。
彼女はぽかんとしてる。

僕はこの、言いたいことをうまく言えず溜めてしまう人と、これからも一緒に暮らしていこう。

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