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不登校は誰のせいなのか?

子どもがどのような子どもであるか、あるいはどのような大人になったのかについて、「母のおかげだ」「母のせいだ」ということがよく語られる。

「○○大学と○○大学に合格した子の親はどういう子育てをしていたのか」という記事が書かれ、それを興味深く読んでしまうことから、私も含め多くの人の心にそういった考え、先入観があるのだろう。

もちろん逆もしかりで、子どもがはたから見て素晴らしい成長を遂げなかった場合、「どういう親が~」という気持ちになるということはある。

そのネガティブな側面を、不登校の親は抱えているということだ。

不登校の親である私たちは、それに真っ向から対抗して自分の正しさを証明するか、あるいは放棄するか、あるいはおかしな先入観であると投げ捨て解放されるか、あるいは……(あと何があるかな)しなくてはならない。

私は(未熟な私は)、「私のせいではない」と思いたかった。

「繊細な心を持つ子どもだから」「嫌なことができない性質だから」「学校教育が時代と合っていないから」などなど。いくらでも言うことができる。

それでも、子どものためにできることは無限にあり、私はそのすべてを実行することはできない。つまりどんなに言い訳を並べてみたって「私のせいではない」と言い切れない。

もうひとつの逃げ道として、「不登校が悪い状態というわけではない」と言うこともできる。そうすれば「私のせい」などと考えなくていい。これは有効な考え方かもしれない。そうだ、そうしよう。

そうやって、私たち不登校の親は自分を楽にする道を選んでいく。

でも私は、そういう考え方から逃れたい。「私のせいかどうか」を気にする小ささから逃れたいのだ。

わが子がこの世に生を受けたのは、まぎれもなく私の影響だ。彼らの遺伝子も、半分は私の影響だ。さらに、毎日一緒に過ごしている中で、私の行動は彼らに大きな影響を与えている。

こう考えてはどうだろうか。どうしたって、私のせいであり、彼ら自身のせいでもある。環境や運のせいでもある。

私は私のできる範囲でやるし、それはもちろん足りないことだらけで、よい結果とよくない結果の両方をもたらす。

「私のせいじゃない」ことなんてひとつもないし、「私だけのせい」ってこともひとつもない。全部の責任を受け入れて、でもひとりだけの責任だなんて思わない。

でもまだ、そんな風に考えるのは難しい。

「ご自宅で勉強していますか」と聞かれるたびに、自分が責められているように感じる。子どものためを思っているんじゃなくて、自分を守りたいだけなんじゃないだろうか。

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