登校を促されると「ブルータス、お前もか」という気持ちになるのはなぜなのか?
「ブルータス、お前もか」とは、敵(暗殺者)の中に友人(ブルータス)がいたと気づいて洩らした言葉だそう。私は、この言葉が頭に浮かぶことがある。
子どもが学校に行かなくなって、最初は行かせようとしていた親(つまり私)も、だんだんと学校なしでどうにかしようと考えるようになる。
学校を「行かなければいけない」から、「ひとつの選択肢」として考えられると、途端にハッピーになる。これはなぜなんだろうか? 逃げているだけなんだろうか?
学校関係者(学校に行かせようとしている人たち)と話すと、とても消耗するし、悲しみが深まるし、イライラにもつながる。これはなぜなんだろうか?
どんな言われ方が苦しいのか?
学校関係者に言われて苦しいことがときどきある。
その理由が自分でもはっきりとはわからない。だから考えてみることにした。まずは場合分けからやってみる。
「週に1度でも学校に行って、スクールカウンセラーと話しましょうか」
→OK
「学校の設備をお借りして、少し何か活動してみましょうか」
→OK
「まずは週に1回から始めて、徐々に日数を増やしていけるといいのですが」
→「ブルータス、お前もか」
何だろうこの苦しさは。「少しやってみて大丈夫だったから、もう少し行けるだろう」という作戦で、つないだ鎖を少しずつ増やされていくような気持ち。
相手の方はそうは思っていないと思うけど、「少しずつ痛さに慣れさせていけば大丈夫。みんなやってるし、我慢できるから」と言われているような。
「嫌なことでもやらなくてはいけない」
「嫌なことをじりじりと慣れさせていくしかない」
と言われているような……(これらはもっともな意見かもしれないが、長い説明や前提が必要で、ひとことでこのように言い切るのは短絡的だと私は思っている)。
いや本当に、先ほどの太字のセリフをここに書いて反芻しているだけでめちゃくちゃ息苦しくなっていく。
では、どういう言い方をされればいいのだろうか?
「週に1回通ってみて、学校が怖くないと思ってもらえるといいのですが」
→まだいいかも
と、いうことは。「少しずつ増やしていきましょう」という目的ありきの言われ方が、苦しい原因なんだろうか。
「ちゃんと子どもを見てくれる。子どものペースに合わせてくれる。目的ありき、形ありきのところに子どもをはめ込もうとしていない」そう思えることが必要なのかもしれない。
改めて、なぜそんなに苦しいのか?
ある程度の分解ができたところで。
ではなぜ、それがそんなに苦しいのか?
それはおそらく、今まで私自身がさんざんやってきて、全然上手くいかなかったからなんだと思う。
「少しずつ、だましだましなら行けるだろう」
「これができたんだから、次はもう少しやってみれば?」
そうやって、子どもの沈んだ顔をなかったことにして、子どもの重い足取りを無視して、手を引っ張って進めていく。私自身もそれをさんざんやってきて、打ちのめされてきたのだ。
それにより、よかった経験が何ひとつない。子どもはどんどん悪くなっていった。
「悪く」というのは、口数が少ない、笑わない、人に心を開かない、怒りっぽい、「死にたい」と言う、自信がない、やる気がない、活力がない、みたいなことだ。
引っ張るのをやめると前に進む(ことがある)
手を引くのをやめて、子どもを観察して、元気な時に「一歩進んでみる?」と言うと、進むことがある。何も言わなくても、彼らから「前に進みたい」と進むこともある。
手を引いたときには数歩進むのもやっとで、回復に何倍もの時間を要していたのに、自分の意思なら走り出すことすらある。そういう経験をしているのだ。
ただそれは、いつになるかはわからない。
だから、簡単ではない。
他者からは「ただ何もしていないだけ」と思われる。
だから、孤独でもある。
植物と似ているんだと思う。土を耕して水をやり、陽の光に当てて環境を整え、自分から咲いてくれるのを待つ。枝を引っ張ったって蕾ができることはないし、ましてや花が咲くこともない。
ただ、植物と違うのは自分で場所を選べること。私ができるのは、環境を整えたのちに芽が出たとき「どこかに植え替えてみる?」と聞くこと。さらには、そのときの準備なのかもしれない。
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