なぜ信じられたのか
イエス様を信じてから、2年が経った。
私はいま、信じることのできない人たちの気持ちがよく分かる。というのは、私は聖霊様に導かれイエス様にビジョンを通して出会わなかれば、決してイエス様を信じることなどなかったからだ。
「自分はなんで信じることができたのだろう。」
おとぎばなしのような聖書を読みながら、ふと疑問に思うことがある。「疑い」が浮かび上がる。そんなとき、日本人の信仰者に支えられる。
えつこさんのYouTubeをほぼ毎朝目覚めた時に聴いて、夜寝る前に聴きながら寝る。私はこのチャンネルに大きく支えられている。
信仰をどうしたら保てるのか、なんて考えていた私だが、教会へ行くと、人に相談を受けることがある。女性が多いのだが、「同居している彼氏がノンクリスチャン。わかっているけど、どうすればいいかわからない。神様は私に離れろと言ってはいないと思う。」そう泣きながら話してくれた。
私も涙がかすんだ。彼女の心の苦しみが、伝わってきたからだ。
「教会に連れてきたことがあったけれど、教会の人からは彼がクリスチャンでないことに驚いていた。それからというもの、彼は抜けものにされた感じで、教会にも来てくれなくなった。でも、彼は私の信仰を応援してくれている。」
えみ「だれもジャッジできない。
神様の答えは、YESでもNOでもなく、Wait(待て)ということもある。」
聖書には Do not york with unbelievers としっかりと書いてある。
私たち周りの人間はこのカップルをジャッジする資格もない。私は、彼女の彼氏が心を開き、イエス様に個人的に出会うことを祈った。彼女は泣いていたが、涙を拭いて、笑顔で帰っていった。
時々、思ってもいない人が私に相談をしてくる。重たい相談もあれば、日常生活の愚痴も。イエス様を信じていない時は、進路相談以外、人からされたことが無かったように思う。
クリスチャン歴2年なので、、、など言い訳を言っている場合ではない。
聖霊に満たされた礼拝
先週の日曜日(7日)は聖霊に満たされていた。始まりのワーシップ(賛美)のとき、神様が私に語りかけ、私は思わず涙を流していた。化粧が崩れるから嫌なんだけど、と思ってはいるものの、聖霊様に満たされ、涙が止まらない。そう思っていると、あちこちから、泣いている人のうめきが聞こえてきた。「わたしだけじゃなかったんだ」と気づく。ある人は地面にひれ伏して神様を礼拝し、あるひとは涙声を上げて賛美している。聖霊に満たされた御魂に語られた礼拝であった。
そのとき、神様から語られたことは二つ。
1、日本人を対象とした日本語での聖書勉強会を主催すること
2、カンタベリーにあと半年だけ残ること。(その後は神様に委ねる。)(チャリティービザはいまは取らない。)
あと1年間はいる予定だったので、神様に語られた時、悲しくて、「神様、本当ですか」と涙を流していた。でも、神様は、「あなたのためではなく、あなたを必要とする人のためにあなたはここにいるのだ」と教えてくれた。たしかに、いままでは少なからず奉仕と言いつつ、自分の成長、自分の嗜好を最優先していた。でも、これからは、学生、みことばを聴いたことがない人たちのために、福音を伝えるために、私はここに存在することを改めて神様に告げられ、逃げ道はない、やるしかない、と決意した。
気が変わるのが怖かったから、礼拝が終わるとすぐにホストファミリーにメールをして、今夜会えないかと聞いた。その夜、ホストファミリーに、このことを告げると、一晩寝なさい、と言われた。一晩寝た後も、その神様から頂いた決意は変わらなかった。
後日そのことをチームに伝えると、リーダーからは、「えみがいないと困る」と言われたが、次に会った時は、「えみはあと半年でいなくなってしまうからね」となんか理解されているようだった。私自身、理解してくれていたことに、びっくりした。
神様の御心ならば、人間はならないと思うことでもなる。逆に、人間が勝手になると思うことも、御心でなければ、ならない。
神様が私たちに持っている計画は、良いものである。
私たちはただ、それを受け入れ、神と共に歩む、それだけなのだ。ただ、それが難しいのである。
自我というものが邪魔したり、プライドや他の人との関係まで絡んでくると、もうがんじがらめになって、神様と共にあゆむことができず、人間としての選択肢を取ってしまうことがある。そんなとき、私たちにできること、それは、祈ること、祈ることである。「神様、ごめんなさい。私はあなたの召命に応じることができませんでした。今からでも遅くないですか?それとも、他の道を用意してくださっていますか?教えてください。」
そうして祈ると、神様は必ず、答えてくださるのである。
信仰生活は、楽じゃない。教会に行くだけがクリスチャンじゃない。問題はたくさんある。でも、神様はいなくならない。ずっと私たちのそばにいて、たとえ間違った方向へ行こうとも、その先で待っていてくれる。「振り返れ。そっちじゃない。」と。
勇気を持つのは、あなたじゃない、神様が勇気を持っているから。私たちは神様の波に、乗っていく。神様は、私たちが想像以上の祝福を持って、私たちを迎え入れてくれる。
なぜイエス様を信じられたのか。
それは、イエス様が、この世の、これから先も、ずっと、永遠の神だからである。
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