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赫雪姫



 かれは由緒正しい吸血鬼の王子。ただし事情があって生後間もなく一般庶民の家に預けられていたため品は良くない。そして今は、これまた諸般の事情により、旅の行商人に身をやつして諸国を遍歴中。


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 これこれそこの若い衆。その娘はおぬしの接吻(くちづけ)なんぞで目覚めたりせんぞ。
 わっ。何だよババア。急に横から出てくんじゃねえよ心臓に杭打たれたかと思ったじゃねえか。え何? キスしても起きねえのこいつ?
 無駄じゃよ。なんせもう99年と11ヶ月と29日も眠りつづけとるんじゃからのう。
 いやだってお前、やってみなきゃわかんねェじゃんよ。せっかくお前、鉄条網みたいな茨の繁みを切り裂いて、ここまで辿り着いたってのによお。あれ、俺だから乗り越えられたんだぜ。生身の人間だったらお前、ズタボロんなってくたばってるっての。
 たしかにおぬしは並みの人間ではないようじゃの。だが、その娘が喰ろうた林檎の毒は、この国随一の魔女が心血注いで調合したものじゃ。100年に垂(なんな)んとする年月が過ぎた今もなお、細胞の漿液にまで沁みこんでおる。どうしてもと言うなら止めんが、そんなことをすれば、おぬしとて、人の姿を保ってはおられまいて。
 どうでもいいけど、細胞だの漿液だのって、えらく難しい単語知ってんな婆さん。
 これだけ生きれば、医学の心得くらい持っておるわい。
 でもこの姿を保ってられねえってな困るな。おれの本体ってのはなかなかいかついからなあ。あんま女の子にウケがよくねえんだわ。これは行き倒れた若ぇ衆(し)の亡骸をちょっとアレさせてもらったもんでよぉ、そうそう替えのきくもんじゃねえんだ。そりゃまずいよ。しかし弱ったな。こんな佳い女が目の前でこんなお前、目ぇ閉じて褥(しとね)にしどけなく横たわっててさあ……。それでお前、なんもしちゃいけねえっての? ……。だってふつうあれだろ、こういうのってなァ、王子様がキスすりゃパチっとつぶらな瞳を開けて「まあ有難う。きゃっ。なんて素敵な殿方かしら」とかなんとか言ってこう、わっと抱きついてきてさ、そんでもって後はもう、なんつーか、はははは。いや参ったねどうも。えへへへへへ。
 やめんか。これ落ち着け。よだれを拭け、よだれを。
 わっ、ぺっぺっ、よしなっての。なにで人の顔拭きやがんだ。雑巾じゃねえのかそれ。
 わしの替えの腰巻じゃ。
 げっ。なお悪りぃや。どうでもいいけどよぉ婆さん、おめえどっから湧いてきたンだよ。なんかあれか? この姫さんの腰元かなんかか。99年経ってるってんなら、お付きのもんだってそりゃ齢も取らあな。……っと、待てよ。並の人間がそんな長生きするわきゃねえや。一緒に呪いがかかったてェんならともかく……そんな話は聞いたことねえ……あっ、わかったぞてめえ、何のこたぁない、その魔女ってなおめえだな? とんでもねえなあまったく。手前で毒リンゴ喰わせやがって、ンでもって、そこでずうっと、助けが来ねえよう見張ってやがんだな。ストーキングしてんだ。図星だろ? どうだ?
 (小声でぼそっと)違うわい。
 嘘つけ。いま目が泳いだじゃねえか。
 違うんじゃ。あれはこの娘の母親がやったことじゃ。一国を統べる王の妃の身でありながら、度を越した嫉妬心から忌まわしき異教の呪術にのめり込み、あげくの果てに自らが腹を痛めた愛娘に毒を盛りおった文字どおりの毒婦……わしはあんな女ではない。あるものか。
 えっ? 腹ァ痛めたって、継母だろ? たしかそう聞いてるぜ。
 それは後世の者が、ショックを和らげるために話を書き換えたのじゃ。あれは正真正銘の母親じゃったよ。
 ふうん。なんかドロドロしてやんなあ。まあ母娘関係なんて所詮おれにはわからんさ。けどそうかい。つまりその魔女ってな、こいつの実のおっかさんってんだな。んで、何だよおまえ、お前ほんとに、そのおっかさんじゃねえの? ご本人さんじゃねえんですかい?
 違うっ。断じて違うというておろうが。
 えらく力が入ったね。まっいいや、押し問答してても始まらねえ。そんでおめえ、どうでもいいけど、とりあえずなんかねえかな、その、キス以外でよ、ようするに、こっちに毒が回らねえような、なんかこう、手立てがよ。まるっきりお手上げってもんでもねえんだろ? なんか知ってんだろ? 教えっつくれよ、よう。
 それはまあ、ないわけでもないがの。

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4,700字

いくつかの短篇といくつかの詩。

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