「言語化」は、自分を助ける
「言語化」って何かのためにしていませんか?
自分の正直な心よりも「こういう状況になってほしい」ために言語化してることありませんか?および「こう言ったら正解だろう」とか。
子供の頃この「言語化」が上手くできないことで、他人に意思が伝わらず何か嫌な思いをすることが誰にでもあったのではないでしょうか。
例えば
意図と違う意味に受け取られて怒られて怖かった…
ゆっくり聞いてもらえず無視され悲しかった…
間違えた表現をした時に人が離れ寂しかった…
感情を表現したらバカにされて恥ずかしかった…
一般的な表現に正されてしまったので諦めた…
などなど、私たちにとっての「言語化」は、心=言葉として成り立たせる前に、他人にとって心地よいものや世間にとって正解と思われる言葉を探すことを優先させられる場面が多かった。
だから今「自分の気持ち」を言葉にすることは思ったよりも難しいし、無意識に避けてしまう。また不快な感情を味わいたくないから。嘘をついてでも他人に受け入れて欲しいから。そうやって自分以外を慮ることが常識とされているから。
そうやってどんどん言語化を諦めていくうちに、言葉は「本当の自分の感情」でなく「世間や他人のため」のものになってしまいました。
けどそのスキルが無いと生きてこられなかったのも事実。
不満や不安なんかのネガティブを正確に表現することができなかったから、炎上するような「失言」と呼ばれるものが乱立してるのではないのかなと思います。
例えば「〇〇だから不快な気持ちになった」が「やばい」「無理」としか言語化できないのは、発言の失敗を許されず、正解と思われる言葉だけを選ばされ、本音を隠してきた結果なのかもしれない。
だから時々蓋をした感情的な強い言葉が溢れてしまう。
そのネガティブな言葉は自他を傷つけるし、
それを自分に許していない人たちは一斉に非難する。
「正義」に縛られた悲しい循環です。
「外側のための言語化」はもう十分学んできました。
だからこそ今「言語化」を自分のためにすることが大切と感じています。
他者に理解してもらうためではありません。
自分自身を理解し自分のために表現をするための言語化です。
なぜこれが好きですか?
なぜこれが嫌いですか?
なぜ今我慢をしていますか?
なぜ素直になれないのですか?
何を恐れていますか?
それを自分に対して応えてあげるのです。
他人のためではありません。自分のためです。
紙に書くことをお勧めしています。
「ジャーナリング」今徐々に認知されてきています。
ただ自分の感情を紙に書き出してみる。はじめは頭で考えてしまうかもしれません。誰かに見られるかもという恐れで本音が出ないかもしれません。
それでも書き続けるのです。その意識がやがて無意識に代わるまで。
書いて書いて書いて書いて書いて。
そのうちに少しずつ奥に押し込めてきた感情が顔を出してきます。
幼い頃から誰かに聞いて欲しかった、あなたの本当の気持ちです。
本当はこれが好きなの。
本当はこれが嫌だったの。
本当はこれを選びたかったの。
本当はこれを伝えたかったの。
悲しいのが寂しいのが痛いのが怖くて言えなかったの。
まず自分が自分の正確な願望を知ってあげる。
ネガティブもポジティブも認めてあげる。
それができてはじめて、私たちは他人を思い遣ることができる。
他人や世界にとって必要な言葉を選び取ることができる。
調和と平和の世界を作る方法は、まず自分で自分を救うこと。
自分を満たして美しい言葉が溢れたら、世界は幸せの循環をはじめていきます。
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