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こちら後宮、華の薬湯屋【第三話】

遠乗りに出た夜、楊星さんは大きな背中越しにこう言った。

『もしここから出て家に帰りたいと思うなら、陛下から恩放を賜るしかないね。大きな功績をあげて、自由の身になるということだよ。そういう手順を踏まずに脱走でもしたら、俺みたいなのに殺される羽目になるから注意して?』
『こっ、殺される?』

ひゅっと喉が鳴った。
楊星さんは穏やかで優しいけど、その瞬間だけは氷のように冷え冷えとしたピリつきを感じた。

『あははっ。別に、脅かそうっていうんじゃないんだよ。俺の仕事は紫清城の管理だから。ここの使用人や妃嬪はすべて我が華皇帝の所有物だってことは、さすがに知ってるよね? だから逃げ出すなんてことは、あっちゃいけないんだよ』

彼は和やかな雰囲気に戻ったけれど、聞き捨てならない話だった。

まだまだ命は惜しいから、逃げ出すことはしないと決めた。それに、もしかしたらこの紫清城の中に何か手掛かりがあるかもしれないし。

わたしはひとまず、湯屋で一生懸命働きながら、この世界のことをよく知っていくことにしたのだった。

ある日の夕方のこと。
洗濯物が山盛り入った桶を洗装房へ運んでいると、なにやら言い争うような声が聞こえてきた。

争いごとに首を突っ込むのは憚られたけど、一方的に怒鳴られているような様子が気になって、わたしは桶を持ったまま声の方へ向かう。
すると洗装房近くのちょっとした林のようなところで、妃嬪三人が一人を囲んで激しく罵っていた。

『なんであんたが気に入られるのよっ。新入りの癖になんにもわきまえていないのね!』
『いったいどういう手を使って陛下を誑かしたのかしら。見かけによらず強かな女狐ですこと』

どうやら、皇帝の寵を得た新入りの妃嬪を、先輩がいびっているようだった。

(まあ、よくある光景ね。ここに来てからまだ一か月だけど、何回も目にしているもの)

紫清城の後宮に住む妃嬪には七つの階級がある。
上から皇貴妃、貴妃、妃、嬪、貴人、常在、答応。元々の家柄や皇帝の寵愛に応じて位が与えられるが、たいていは答応からスタートする。

明確な階級差があるとはいえ、後宮で一番大切なのは皇帝の寵を得ること。
下級妃嬪であろうが、皇帝の通いが多ければ後宮内で一目置かれる立場になる。そして、当然それを面白く思わない上級妃嬪も出てくるだろう。

(でも、だからってこんなの陰湿だわ。彼女をいじめるより、少しでも自分を磨いて皇帝にアピールするべきじゃない?)

罵声を投げられ、小突かれている子が可哀想になってきた。
どうしたものかと考えているうちに、わたしは面白いことを思いついた。

(この洗濯物の中に、確か寧嬪の服があったはず! ふふっ、ひとつ驚かせちゃおう)

高位の妃嬪ともなると自分の宮殿にお風呂があるから、湯屋に来るのは常在以下が主だ。
けれども先日、宮殿のお風呂が壊れたということで序列三位の寧嬪が湯屋にやってきた。その際衣類の洗濯を承っていたのだ。
桶から衣類を取り出してみると、目の前でいじめをしている妃嬪達より豪華である。つまり、彼女らより寧嬪のほうが上級だということ。

建物の影で手早く着替えを済ませ、髪もそれっぽく結ってみる。さすがにこの格好であれば、宦官に間違われたわたしでも女に見えるだろう。
袖元で口元を隠し、しなをつくって彼女たちに近づく。

「……そなたら、そのようなところで何をしているのか?」
「うるさいわねっ。邪魔しないで――」
 
噛みつくように怒鳴りながら振り返ったいじめっ子は、わたしの身なりを見るなりぎょっと顔をこわばらせた。

「あっ……。大変失礼いたしました!!」

三人は慌てて地面に膝をつき、拝謁の礼をとる。
後宮の上下関係というのは思っていた以上に厳しいらしい。効果は絶大だった。

いじめっ子たちはそれぞれに名を名乗った。予想通り位は序列五位の常在。
適当に安嬪だと名乗ると、彼女たちはさっきまでの勢いが嘘のようにしおらしい態度をとる。

「――そなたらは、この者をいじめているように見えたのだが。そのような行いは後宮の品を落とすことになる。謹んでほしい」
「はっ、はい……。申し訳、ございませんでした」
「わかったならこれ以上追及はしない。自分の宮殿に戻るがよい」
「広い御心に感謝いたします」

常在たちが去っていくのを確認して向き直る。

「……ねえ。大変だったね。大丈夫? どこか怪我してない?」
「あっ……。申し訳ございませんっ。あたしなんかのために安嬪様が」
「これ、嘘なの。わたしは安嬪じゃなくて、ただの湯屋の使用人」
「えっ?」

虚を突かれたような表情の彼女。わたしは窮屈な妃嬪衣装を脱ぎ捨て、元の湯屋作務衣姿に戻る。

「ほらね? あっ、いつもは麻袋かぶってるから分からないか。ほら、これで見覚えある?」

ポケットから例の麻袋を出して被ると、彼女は「あっ、番台さん!」と思い出したようだった。

「そっ。あなた名前は何ていうの? わたしは海里だよ」
「あたしは春鈴。位は答応よ。……助けてくれてありがとう」
「いつもは首を突っ込まないんだけど、あの子たちが一方的すぎて腹が立っちゃって。でも、こんな場所で揉めるなんて珍しいね」

湯屋も後宮の中にあるけど、妃嬪たちが住む宮殿の区画とは別の区画にあるため、彼女たちの普段の生活と交わることはない。
春鈴はあどけなさが残る顔を地面に向ける。

「薬草を採りに来てたの。たぶん、後をつけられてたのね。あたしに文句を言う機会をうかがってたんだと思う」
「薬草?」
「そうよ。おととい散歩してたとき、この林には薬草がたくさん生えてるってことに気がついたの。……あたしの宮殿は銀子も少ないから、いざというときのために備えておこうと思って」
「えっ、本当だ! これは甘草? えっ、大棗もある。こっちは菊花だし、あの木は桂枝じゃないの!」

春鈴の言葉通り、周囲を見渡してみると、漢方薬に使うような生薬がざくざく生えていた。

(すごい! さすが中国! これならちょっとした薬は調合できそうね! いい場所を見つけたわ!)
 
洗装房に行くことなどすっかり頭から抜け落ちて、わたしは薬草採集に没頭した。

困惑していた春鈴はいつの間にか帰ったらしい。
日がすっかり沈んで手元が見えづらくなってきたことでわたしはようやく自分の仕事を思い出し、慌てて洗装房に桶を届け、湯屋に戻ったのだった。
 

 
「はい、これ。試作品第一号の桂枝茯苓丸。春鈴、さんざん小突かれたせいで打ち身になってるでしょ。これを飲むといいよ」

あれから数日後。
明け方湯に入りに来た春鈴に、番台から黒い丸薬を渡す。

「えっ? けいし、ぶくりょう丸? お薬なの?」
「そうだよ。わたし、湯屋に来る前は薬剤師してたんだ。あっ、危なくないよ。ほら」

ちょっと会話しただけの宦官がくれた薬など、不審だろうかと思ったので、渡した丸薬から一つつまんで麻袋の下から自分の口に放り込む。
春鈴はリスのような目を丸くして、その様子を見つめていた。

(春鈴、どう見ても十代中ごろだし。皇帝の相手しながら先輩にもいびられて。苦労が多そうで気の毒なんだもの)

自分より一回り年下の女の子が苦労している様子は、心にくるものがあった。
ちなみに居室で薬草を加工している姿は南照に不気味がられた。南照ってば、わたしが昔薬剤師だったってことも、いまいち信じてないみたいだったし。失礼しちゃう。

「ありがとう、海里」

春鈴はまるで宝物かのように丸薬を手のひらで包み込み、そして大切そうにお付きの女官に手渡す。
ニコッと笑ってくれた顔は、いつものどこか緊張した表情が剥がれて年相応のあどけなさがあって、すごく可愛らしかった。
そしてわたしも、久しぶりに自分が薬剤師であることを思い出し、患者さんの役に立てた喜びを感じたのだった。



閉店後、残り湯に入りながら考える。

(林に生えてる薬草を使って、なにか役に立てないかな? 湯屋で働いてるけど、わたしは薬剤師だもの。もっとできることがあるはず)

丸薬を握りしめた春蘭の笑顔が脳裏に浮かぶ。

(とはいえ、後宮にはすでに診療所があるみたいだし。ここは湯屋なんだから治療行為は難しいよね……)

初日に南照が教えてくれたのだけど、後宮には妃嬪やその他使用人が大勢住んでいることもあって、生活に必要な施設は一通り備わっている。相応のお金を払うことが前提ではあるけど、太医院という診療所もあると言っていた。

(だったら、うーん。湯屋で薬。組み合わせると……)

ハッと閃いた。
実家近くの観光地。そこには温泉があって、湯治ができることでも有名だった。

「薬湯だわ! 薬湯ができる湯屋にしよう!」

ザバアッと水しぶきをあげて湯船から立ち上がる。我ながら名案が思い付いた!

「日替わりで違う効能の薬湯にしてもいいかも。妃嬪方は肌艶を気にするし、宦官は身体のコリが気になるみたいだから、そういう処方をメインにして……」

あれこれアイデアが浮かんでくる。
早く湯を出て行動に移そうと、浴場の扉に手をかけたとき。

「海里~? 君、湯屋で働いているって言ってたよね。覇天が君に会いたいって言うから、遊びに来たよ!」

正面入り口のほうから楊星さんの声が上がる。
ぎくり、と心臓が跳ね上がった。

「あれ? いないの? 閉店後は掃除をしてると思ったんだけどな。上がるよ」

(まずい! 南照は!? 男湯で身体を洗ってて聞こえないのかしら!?)

さっぱりしたばかりの身体にどっと冷汗が湧いて出る。

「ん~? いないなあ。浴場の掃除中かな?」

楊星さんらしき足音が近づいていくる。
まずい。今のわたしはもちろんすっぽんぽんだ。着替えは脱衣所にあって、今出たら楊星さんとかち合う可能性がある。

(女だとバレたら大変なことになる。後宮に放り込まれるだけじゃ済まないかもしれない。性別を偽った罪で処刑なんてことになるかも……!)

楊星さんの手が浴場の扉にかかる。
わたしは思わず、ぎゅっと目をつぶった。

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