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看取り

家族、親族、親しい人が亡くなる。

その最後の時を共に過ごす。

私は生まれた家でも嫁いだ今の家でもいろいろと経験してきた。

共に三世代同居家族なので、看取りはごく自然のことでした。

思い返すと56才の私が経験した看取りは10回。

改めて振り返ってみようと思います。

1-祖母 小学一年生

祖母は自宅で亡くなりました。

親戚に人たちがたくさん自宅に集まって、いとこたちとひとつ違いの妹は大はしゃぎ。

でも、私は、そこで起きている、「祖母が息を引き取る」という事実を受け止めることが出来て、不安で仕方なかった。

痩せた祖母が目を大きく見開いて激しく呼吸をする。

吐く息は長く長く、そして吸う息は短い。

いつもは嬉しいはずの店屋物のうどんものどを通らない。

そして、ついに深い吐く息の後、息を吸うことが無くなった。

祖母が死んだということを知らされ、小学一年生の私は、祖母を探していた。

みんなが、祖母の顔を見ているのになぜだか部屋の天井を探して、ヘラの天井の角に祖母がいる気がした。

そのうちに、そこからも祖母がいなくなった。

そして、私は台所で激しく泣いていた。

妹といとこは私が泣いているのがおかしくて囃し立て、二つ上のいとこが私をかばってくれた。

ひとつ年下の妹は死というものをまだ理解できなかった。

これが私の初めて人の死を実感し、看取りの体験だった。

この祖母の死は、深く私の心に刻まれて、小学生の私は死についてよく考えていたが、まだ、よく理解できるわけもなく、恐怖と悲しみのイメージを植え付けた。

2-3-曾祖母、祖父の死 中学1年、中学2年

祖母の死がトラウマになっていたのか、この時の記憶は不思議なほど無い。

二人とも入院先の病院で亡くなったのだが、看取った記憶もない。

いや、たぶん病院には行ったのだろうが、祖母の亡くなる時の記憶が強烈過ぎて、立ち会うのが怖かった。

自宅で葬儀をしたのだけれど、顔を見るのさえ怖かった。

4-母方の祖母 28歳ごろ

母方の祖母は小さいころから可愛がってくれて、とても仲良しでした。

私が農家に嫁ぐと聞いて、自分も農家に嫁いで苦労と貧乏と、辛い人生だったので反対し、ずっと心配していた。

病気になって入院してからも、お見舞いに行くと、

「担当の看護婦さんが農家に嫁いだのだけれど、それから看護の資格を取って看護師として働いているから、恵美もまだ間に合うよ」

などと、言ったりしていた。

しばらくしてお見舞いに行くと

「いろんな人が、恵美も立派に農家の仕事しているって聞くから、おばあちゃんはもう心配するの止めたよ。頑張りんんね。」

結局、それが最後の会話だった。

私のことだけではなく、子供のこと、孫のこと、心配ばかりしていたおばあちゃんが、死を迎えるにあたって、心配を手放した。

亡くなる瞬間も病院で母や、いとこたちと見守って迎えた。

あまりにも穏やかな最後、そして最後にもらった言葉のおかげか、今まで持っていた死の恐怖はどこにもなく、

「おばあちゃんありがとう」

という、亡くなっていく人に対する感謝の気持ちを強く感じた。

5-義父 35才

義父とは結婚してから、いろいろあって、苦手な関係、あまり言葉を交わすこともなかった。

癌になって闘病生活の間も、自分の病気を受け入れられなくて、自暴自棄になったりと、辛い思い出が多い。

亡くなった後も素直に手を合わせられるだろうか??とさえ思っていた。

ある時、小学生の長男と見舞いに行くと

「あんたには、この家に嫁に来て苦労かけた。ばあさんたちのことを頼む」

長男に

「わしは百姓を継いで苦労してきた。お前は好きなことをやればいい」

それが最後の言葉だった。

その言葉で安心したのか、農家は継がないと、会社勤めをした長男も今は、家業を継いで一緒に仕事をしている。もちろん、自分で選んだ。

私は、義父の言葉で、今までの辛かったことがすべて消えてしまって、亡くなった後、素直に手を合わせられるようになった。

人は自分の死を受け入れた時に、残された人のことを一番に思う。

そう思えた時に、穏やかに死を迎えられるのだと実感した。

6-義祖母 37才

息子である義父が亡くなってすっかり気落ちして寝込むようになったおばあちゃん。

嫁いでから、家族の中で、ひとり優しかったおばあちゃん。寝たきりになって、孫嫁の私が介護をしていた。

ようやく介護保険も使えるようになって、デイサービスに通い始めた矢先、ディサービスのお向かいに来た看護師さんから、心臓の調子が良くないので断られました。

ちょうどその時に私は5人目の子供を妊娠していました。

デイサービスを断られ、ベットの上で寝ているのか起きているのかわからないおばあちゃんの身体を拭きながら、

「これから、どうしようかねぇ、私もおなか大きくなるだろうし。子供はあきらめようか。」

そんな独り言にもちろん返事はありません。

そして、その日の午後、仕事から帰ると、祖父が

「ばあさんが息をしていない」

おばあちゃんはひとりで息を引き取っていたのです。

あぁ、おばあちゃん、このおなかに芽生えた命、産んでもいいんだね。

そう受けとり、私は5人目を産む決心をしました。

その後産まれた5番目の子供は女の子。

不思議と、たたずむ姿がおばあちゃんに似ているのです。

7-義祖父 39才

おじいちゃんは明治生まれの頑固者、堅物。とにかく、泣かされました。

しかし、義父、義祖母の死を通して、コミュニケーションが取れるようになりました。

「おれの最後は恵美ちゃんに頼む」

そう言ったおじいちゃんが具合が悪くなり、かかりつけのお医者さんに相談すると、救急車を呼んだ方がいいとのことで、救急搬送され、入院しました。

予想通り、もって2,3日と言われましたが、元気に復活!!!

良かった!と思いきや、病院で大目玉を食らいました。

「おれは家で死ぬと言ったのに、なんで病院なんかにつれてくるだ!!!」

これは大変なことをしたと、落ち込んでいるとある人に言われました。

「物には順序というのがある。孫のあなたの仕事じゃないんだよ。」

なるほどと、入院中の看護を、叔父、叔母、義母が交代で務めることになりました。そして4巡して、そろそろ、限界。さて、これからどうしようかと思案している時になんの前触れもなくあっさりと息を引き取ってしまいました。

耳の不自由だったおじいちゃんは筆談をしていました。

最後に書いていたのは

「戦争はどうなったか」

中東で戦争をしている時でした。毎日新聞を隅から隅まで読んでいた政治の好きなおじいちゃんらしい最後の言葉です。

おじいちゃんの子供である叔父、叔母たちは、おばあちゃんの時は自宅介護だったので、関わることがほとんどなかったのですが、今回は自分たちも、お世話が出来たという満足感を持つことが出来たように感じました。

死を迎える人をお世話することで、残された人たちの後悔を減らすことも出来るのですね。

8-分家のおばあちゃん 40才

我が家の敷地の隣に祖父の兄嫁が住んでいました。

戦争で名古屋から疎開してきて住み着いていました。

海千山千のおばあちゃんで、いわゆる変わり者のおばあちゃん。

私も昔は苦手で、怖かったのですが、双子を産んだ頃から、大変だからと子守をしてくれたり、その代わり、役所の面倒な手続きを手伝ったりと仲良しになりました。

おばあちゃんは、昔、浜で仏像を拾い、地域のお不動さまの祠に勝手にお祭りをし、その代わりにお不動さまの掃除や世話をしていました。

喧嘩っ早いばあちゃんで

「わしにはお不動さまがついとるだでな!!」

と、啖呵を切る威勢のいいばあちゃんでしたが、ある時、その仏像を海に流してきたというのです。もう、世話が出来なくなったからと。

それからすぐ、ばあちゃんは自宅で、ひっそり亡くなっていました。

ご飯も食べない、水も飲まない、そう自分で決めたそうです。そして、何日か経って、いつもの通り布団に入って、汚すことも乱れることもなく、眠りから目覚めるのを忘れたかのように息を引き取りました。

このおばあちゃんは直接看取ったわけではありませんが、あっぱれな死にざまでした。

9-義弟 51才

夫の妹の旦那さん、弟と言っても私より年上でした。

末期がんの闘病生活の末、緩和ケア病棟に入院していました。

ある時、ひとりでお見舞いに行くと、もう、声もやっとのことで絞り出すような状態でしたが、話を始めました。

詳しい内容は書けませんが、ずっと心にしまっていた傷の話でした。

突然のことで驚きましたが、これはじっくり聞かないといけないと思い、とことん聞きました。

死に直面している人に対して、何を言ったらよいのか、言葉が出てきません。ただただ、聞くだけ、うなずくだけです。

そして、とことん話して私もしっかり聞きました。

その後しばらくして、家族に見守られて亡くなりました。

私はその瞬間には間に合いませんでしたが、その顔はとても穏やかな顔でした。

今までずっと手放せなかった辛い思い、傷ついた心を最後の最後に手放したんだと思いました。

残された家族のためにも経済的なことをはじめいろいろ考え準備をしていたようでした。

この世での生をすべてやり切った人の死にざまは美しいと思う看取りでした。

10-母 53才

母はいつまでも母、死なない気がする。

本気でそう思ってた。

難しい癌になった時、

「家族のだれがこんな病気になっても困る。そう思うと、お母さんでよかったと思う。」

と、病気になってなお、家族の幸せが一番の母。

私も子供たちが成長し、父も仕事を引退したので、これからは旅行に行ったり、親孝行の真似事でもやりたいと思った矢先でした。

今までの看取りから、私には確信がありました。

思い残しのないように、話を聞こう。

でも、母とは普段からよく話をしていたので、特別な印象的な話はありませんでした。

ある時、死を覚悟した母は

「いい人生だった」

と、言いました。

私が嫁いでよく泣いていた時、

「人生、いろいろあるけどね、それでも死ぬときに笑えればいいんだよ」

そう言ってた母。私よりもっともっと大変なお嫁さん時代があったのを私は知っています。

緩和ケア病棟に移ってから、笑いながら、死んだ後の話をしました。

「お葬式にはガーベラをいっぱい飾ってね。写真の周りはガーベラでね。」

「娘とお嫁さんには葬式は着物を着てね。」

「棺に入る時に着る着物は一番高いのはもったいないから2番目のあれね」

そんなことまで話しました。

母が最期を迎えたのは、春。

私は仕事が繁忙期で思うように介護が出来ず、落ち込んでいました。

そんな時に母はやってくれました!!何をしたかは私と母の秘密ですが、最後の最後まで私を救ってくれたのは母でした。

そして、最後の時、叔父、伯母、子供たち、孫たち、ひ孫たち。

全員がそろうのを待っていたかのように、大勢の人に見守られながら、母は旅立ちました。

旅立った母も見送る家族も、悲しくもあり、幸せな看取りでした。

そして今思うこと

初めて今までの看取りを振り返ってみました。

終わり良ければ総て良し

ではありませんが、いろいろ確執のあった家族でも、死に際の一言で、残された人は救われます。

私は救われてきました。

これから私が死を迎える番になって来ます。

母のように

「いい人生だった」

と、言って旅立ちたい。

そのために、今を大切に生きる。

先に逝った人たちに恥じないように私は私の人生を生きていく。

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