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未来の暮らし 2024年のはじまりに

2024年が始まりました。

2023年を振り返り、未来の暮らしについて考えたことをまとめました。未来のことは誰にもわからない。でも少なくとも今と同じままの未来というのはなさそうです。私は新しい未来、わくわくする未来があるに違いない、と思うことにしています。

価値観は変化している

2023年は、私自身の価値観が前と比較してすごく変化したんだ、ということを実感した年でした。自分の変化って、自分ではわかりにくいですが、他者を通じて見えたことがあります。

若い彼女の生き方

私は荒川区に引っ越しをしてきて、ご近所さんと仲良しになりました。彼女は22歳で、私とは親子ほども年齢が違います。そして、「今を生きる」ひとです。現代の22歳にはいろいろな選択肢があります。彼女は「資本主義的な価値観」というものに大きく違和感を持っているという話をしていて、その価値観に合った生活を敢えて選んで暮らしています。私はとても関心してしまいました。彼女の生き方については、詳しくはここには書きませんが、少なくともそれは世の中の変化を象徴していると感じました。昔の私だったら、「とりあえず就職」みたいなおせっかいな提案をしていたかもしれないけれど、今の私はただ、関心し、見習いたいなと思ったのです。

ADDress 5周年記念パーティーでの遠山正道さんの話

私が利用しているサービス、ADDressの5周年記念パーティーで代表の佐別当さんと遠山さんの「ピクニック紀」の話がとても印象的でした。これも詳しくはここに書かないのですが、今の若い人たちは「安定志向」なのではなくて、持っているのは「成功に対する嫌悪感」なのだという話が象徴的でした。それが本当なのであれば、私が無意識に感じている「新しい価値観に対する共感」は正しいのだと言えます。昔の私も、ピクニック紀の話を聞いたら、へーそうなんだ。と思ったかもしれない、でも、今は体感としてそれが理解できるのです。

ピクニック紀については、Forbsに記事があったのでリンクを貼っておきます。


昔からの友人、知人たち、同世代のひとたちと私の価値観が合わなくなっている

2023年、秋ごろから生活が定住型になってきたこともあり、同世代の人と会う機会が多くありました。成功したと言える知人のとても素敵なセカンドハウスに招いてもらったり、東京都主催の「セカンドキャリア塾」に入って、同世代の人たちの話をいろいろ聞きました。

私と同世代の人たちは、実際経済的に恵まれた人が多いし、お金がたくさんあることが「幸せな暮らし」とつながっていると考えている人はとても多い。それはよくわかるのです。私もかつてそう思っていたことがあるから。

でも今の私は同世代の人たちが自然にイメージする「幸せな暮らし」を絶対的な幸せと思わないのです。その幸せは危うくて、お金が無くなった瞬間になくなってしまう。

私が住んでいる家(とっても古い家)に、多拠点生活とは関係のない、普通の会社員の同世代の人を実験的に二人招きましたが、その人たちの私の暮らしへの反応(お金があってこそ、快適な暮らしができる、それが幸せである=私の今の暮らしは自分の幸せのイメージとは違う、ということ)を見て、自分が確実に過去とは違う価値観を持ったのだということが認識できたのでした

お金ではない価値や資産

お金ではない資産を私はあまりにも持っていなさすぎる、そう思って2020年にライフスタイルを大きく変え、気づいて見れば、早3年半以上が過ぎていました。

私は今でも、お金ではない資産をそんなに増やせていないな、と思うし、どうやったらそれを増やし続けることができるのか、ということに関心があります。

年金シミュレーションや、資産運用などをして「老後の生活費は足りるかな?」と思うのと同じくらいか、それ以上に、自分の「目に見えない価値や資産」をどうやって増やせばいいのか、模索中です。もう遅すぎるのではないか、という焦りもあります。

今の暮らしが始まってからお金では買えない資産や価値について「なるほど、そうだったか」と、目から鱗的に体感したエピソードはいろいろあるのですが、象徴的なエピソードは、「ごはんに誘われた話」です。

あるゲストハウスに滞在していたら、「今夜、ごはんみんなで食べますけど一緒にどうですか?」と誘ってもらいました。私は、ちょっとした差し入れをした方がいいのか、とかあまりよくわからなかったので、(そして自分が何か買ってきたのかも覚えていない・・)とりあえず参加したのですが、その「ごはん」は本当に「ごはん」と「味噌汁」だけだったのです。数名の人と一緒に、ごはんに、そのへんにあったふりかけをかけて、お味噌汁と一緒に食べました。それは意外にもとても楽しい夕食でした。

人を食事に誘うということは、(お金や時間を使って)もてなさなくてはいけないことだと勝手に思い込んでいた私にとって、それは衝撃的な経験でしたが、本来、人と一緒にごはんを食べることの目的は、一緒に時間を過ごすことであって、何を食べるか、が1番ではない、ということを体感として理解できた出来事でした。

他者と一緒に暮らすようになって、こんなエピソードには事欠かないほどたくさんあります。「お金ではない資産や価値」の存在を頭ではなく、からだで、というか心の底からわかるようになってきたのです。

理解が難しい人のために、しつこく繰り返すと、私は少なくともごはんと味噌汁だけの、簡素な食事がいいということを言っているわけではありません。どんな時も、どんな状況でも、楽しく豊かに暮らせる生き方、考え方そのものがお金に相応する価値なのだということです。お金があったってもちろんいい。でもなくたっていい。そういうことです。

こういう素敵な人は、今私の周りにはたくさんいます。そういう人に囲まれて生きることはとても幸せなことです。持っているものをなくすんじゃないか、足りなくなったら困るんじゃないか、そういう不安から、少し解放されます。

過去に戻ること、昔に戻ることとは違う

私は、今とても古い家に住んでいて、いろいろな人と共同生活をしています。その家には、ホワイトボードがあって、住んでいる人の名前や、おススメのお店が書いてあったりします。リビングにはノートが置いてあって、そこに滞在した人が、感想やメッセージを書いてくれることもあります。

それを見た私の友人は「昔のペンションみたい」と言っていたのですが、私はそれには大きく違和感がありました。古い家にアナログなコミュニケーション、それは「昔みたい」に見えるけれど、私が今実際に暮らしている様は、どちらかというと「新しい暮らし」なのだと感じています。

行き過ぎた資本主義や、都会の希薄な人間関係を嘆いて、昔はよかった、昭和やもっと前のの暮らしを取り戻そうみたいな話とは全然違います。

実際に私が利用しているADDressというサービスはクレジットカード1枚あれば始められるサービスであり、契約はもちろんのこと、利用に関する予約や、物件のレビューもWEB上ですべて完結します。法律上の婚姻関係がない人をパートナーとして認めてもらえたり、いろいろ先進的です。

利用者同士の人間関係もとてもフラットで、誰が偉いとか、偉くないとかそういうことはありません。お金を持っている人も、全然持っていない人も一緒に暮らしますが、少なくとも、お金を持っている人が偉く、すごいということは、まったくありません。一人一人が、それぞれ違ったことをしていて、好きなことをして収入を得ている人もいるし、この暮らしのために職業を選んだ人もいるし、意図して、または意図とせず、サバティカル中の人もいるし、本当にいろんな人がいます。年齢も職業も趣味も、人とのかかわり方も、生活の好みも何もかもみんなバラバラです。でもその中には、偉いも何もなく、「みんな違う」それだけです。

私が今まで生きてきた中には、そんな世界はありませんでした。学校では勉強やスポーツができる人が偉く、社会では、稼ぎが多い人や、社会的地位が高い人が偉いのが普通です。

そういうヒエラルキーが自然に存在していて、それが「幸せ」や「人として素晴らしい」という本質とは、ずれていることがわかっていても「そういうものだ」と納得しながらみんな生きています。でも私の今の暮らしには、それがないのです。また、縄張り意識なものを感じることもありません。

今日現在であっても、地域コミュニティの濃いエリアに行くと、いろいろな人間関係の気遣いは必須で、それは時に疲れます。そういうことが煩わしくて、都会で暮らす人は増えています。一方では、どんどん人間関係が希薄になり、隣に住んでいる人が誰なのかもわからないことが「あたりまえ」になっている。それは少し異常だと思う人も増えているけれど、だからと言って、昔みたいな、べたべたした干渉しあう人間関係に戻りたいわけではないと思います。

過去に戻るんじゃなくて、「新しい未来の暮らし」がほしい、それは無意識の底の方で多くの人が求めていることなんじゃないかと思います。

きっとこんな未来が待ってる

他人と一緒に暮らすのは楽しい?煩わしい? 煩わしいことを取り除ければ、楽しいんじゃないかなと私は思います。

昔は人は長屋みたいなところに住んで、炊事場で一緒にごはんを作ったり、公衆浴場でお風呂に入ったり、生活を他者とともにしていた。お米やお味噌を貸し借りしたのも、今みたいに便利ではなかったし、何しろ人々は貧しかったのです。

そういう場においては、何らかの権利を持っている人が幅を利かせ、誰かに気に入られないと、そのコミュニティの中で生活をしていくことも難しかった時代。物理的な距離、心理的距離的が近いとコミュニティは閉鎖的になり、そういう煩わしさや、トラブルは付き物となります。

だから人は豊かになるにつれて、煩わしさをできるだけ避けるように、自分の家の中で生活を完結できるようにしてきたのでしょう。

でも、もし、そういう煩わしいことがことがなかったとしたら?

みんなで決めた最低限のルールを、みんながちゃんと守って、毎日みんながニコニコして、時に大変な人がいたら、助けたり、放っておいたりして、心地よく暮らせるなら、一緒にごはんを作ったり、生活の場を貸し借りしたりすることは、楽しいのではないか?

自分の家、他人の家の境界線が少し薄くなって、外に、街にごはんを食べに行ったり、洗濯をしにいったり、銭湯に行ったりして、毎日他人と関わり、ニコニコ暮らせるなら、それは本当に楽しいし、独居老人の問題とかは簡単に解決できるのではないか?

洗濯機や家電製品を共同で使えば、引っ越すたびにゴミを出さずに済むし、エコにもなるのでは?

今でも銭湯に行くと、「ここは私の場所」みたいな縄張りおばあさんみたいな人がいることがあるけど、そういう人がちゃんと変わって、ここはみんなの場所、みんなが譲り合って、大切にきれいに使って、楽しく過ごせる場所なら、他者とモノや場所を共有する暮らしは、いいことがたくさんあるように感じます。

そんなことって、「戦争のない世界」くらい非現実的なのでは?と思う人はたくさんいると思うけど、私はあんまりそういう風に思いません。

私の今の暮らしでは、本当に、「縄ばるひと」はいない。嫌な人に出会った経験はほとんどありません。「自分の家じゃないから(テキトーで)いいや」という人も、「ここは私の家だから滞在する人はうちのルールに従って!」という家もとても少ないです。

毎日他人といることがこれほどまでに煩わしくないという世界は本当にあるのです。それはみんなが常に移動していて、コミュニティが開放的であることはもちろんのこと、みんなの努力で、「場」が作られているからだと思います。

どんな人にも、「いい人の顔」と「悪い人の顔」がある。私自身も、余裕がないときや、疲れているとき、嫌な人ばっかりの場所では、「悪い人」になる時もある。

でもその「場」がよい「場」ならなるべく「いい人」でいようと思う。そして、いい人でいられるような「場」で生きることは幸せで、自分がずっといい人でいられるような気持になる。自分に「悪い人」の顔があることを忘れてしまいそうにさえなります。

実際にそういう場があるのだから、作ろうと思えば、そういう世界は作れるんじゃないかなと思います。

「あのうち、まだ家のお風呂にはいってるらしい、古いね」と言われるような世の中が来るかもしれない。「拡張家族」とか「まちで暮らす」そういう未来の暮らしが現実になったら素敵だと思います。

おわりに

ということで2023年を振り返って一番印象的だったことを書きました。環境が変わると人は変わります。私はずっと変わりたかったのだから、その変化を感じられたことはとてもうれしいことでした。

さて、2024年はどんなことが起きるでしょうか?

今夜もよい夢を見られますように。






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