入院で見えたわたしの本当の望み

2021年8月31日に書いていたらしい。
懐かしいなあ。こんなこともあったんだね。


だれもいない自分だけの部屋で静かな時間を過ごす。ここは病院だ。夫、こどももいない自分だけの時間。聴こえる音は、看護師さんの足音と鳥たちのさえずりだけ。ベッドでの上でわかったこと、それは休憩だった。もう休みたい。もうなにもしたくない。なにも考えずぼーっとしたい。カラダを休めたいということだった。わたしが欲しいものは、こんなに疲れて家族がうっとうしくなって、挙句の果て入院するということではない。あるがままのわたしをサポートといいながら、あるがままのわたしでいなかったのはこのわたしだった。いったい今まで何が起こっていたのか?


ドイツでのロックダウン、小学1年生だった娘は30分のオンライン授業+ホームスクール、4歳の息子も自宅保育。こどもたちのことは好きだけど、毎日いっしょに過ごすやはり疲れるもの。食事の支度、掃除、こどもたちとの対応をしながら、慣れないブログ書きなどをしていた毎日。いったいどこで息を抜いていたのだろう? この時は教員をしている主人もオンライン授業を行っていたので、家事も手伝ってくれた。そして、いよいよ、ロックダウンが徐々に解除されていった今年の春、こどもたちも主人も学校へ行くようになり一人時間ができ、自分のやりたいセッションを提供できるように準備を進めていた。やってみたいと思って始めた起業、新しいことを知るおもしろさ、パソコン操作がウルトラ苦手なわたしが、少しずつ扱えるようにうれしさがあった。メンターの存在や仲間との報告会も充実した気持ちにさせていた。でも、いつからだろう?嬉しい・たのしい・ワクワクが消えて、やらなくちゃいけないものに変わったのは。。。これをやらないとみんなから取り残されると思い、自分を追い詰めはじめたのは。。。やらなきゃいけないといつのまにか思いこみはじめたその先、しあわせ度がどんどん下がっていった。あの時は自分のしあわせ度を振り返る余裕なんてなかったし、自身でじぶんを不幸にしているなんて気がつきもしなかった。感じていたことは、朝が来るのが苦しいということだった。このあたりから心身の異変が出はじめてた。身体の状態はこんな感じだった。


・夜ベッドに入るとき、やっと夜が来た、もう何も考えなくていいんだとほっとする。ほっとしているのにもかかわらず寝つきが悪い

・朝が来るのが憂鬱。目覚めると体が鉛のように重く、起き上がるまで時間がかかる。こどもたちの支度があるので、仕方がなく起きるが、また一日がはじまると思うと果てしなく憂鬱な気分でいる

・ごはんがおいしく感じない。口に運ぶことはできるがおいしいという感覚がない 

・お腹が空かず、何を食べたいのかがわからない 食事をふくめ自分はいったい何が好きなのかわからなくなる。食べたいものがわからないので、なにを料理をしたらいいのかわからず料理回数が減っていく

・いつもどんよりした気持ちでいるのといつもイライラし、話し方がトゲトゲしくなる。結果、家族を気遣わせることになり、自己嫌悪に陥りまたイライラする

こんな感じだった。今思うと、あのころの私はなんてつまらない毎日を送っていたのだろう。ずっと頑張らなくてはいけないと思ってたので、交換神経が働いている状態が続いていた。いつも戦闘態勢なので、ふわ~っと緩む時間を持っていなかった。

あなたにもあるだろうか?好きで始めたことが、いつのまにかつまらないものになってしまったもの、嫌いになってしまったもの、自分を責める材料になっているもの。。。これらはもう休んでいいですよというサインだ。あなたのきもちを重たくするものと、離れていいですよということだ。

休むことに罪悪感を持つ人がいる。休むことはサボることとイコールではない。次へ進むためのエネルギーチャージの時間で、休むことはわたしたちの生活に欠かすことのできない行動のひとつなのだ。そうはいったって、休めない性分もひともいるだろう。痛い目にあってはじめて休息をとるわたしのようなひとがいるかもしれない。そういうタイプのひとは休むことに対するマインドセットをすることで、罪悪感をもつことなく休めるようになる。そのマインドセットとはなにか?次回に続く。


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