交響曲「咳」

ドイツのベルリン・フィルが創設100周年を迎えた1982年。同オーケストラの初代指揮者ハンス・フォン・ビュローの親戚にあたる一人のコメディアンが、グリーグの組曲『ペールギュント』の「オーゼの死」を振りました。『ペールギュント』は、放蕩息子の主人公ペールギュントをめぐるノルウェーの壮大な叙事詩で、物語の冒頭、放浪から帰った息子を迎えた母オーゼの死を沈鬱なメロディで表現したのがこの第2曲「オーゼの死」。

遊び歩いて魔物に襲われてママー!って帰ってきたダメ息子に、それでもベタ惚れしていた母オーゼが、息子の前で死んでしまう神妙なシーン。もちろん観客は息をのみ、哀悼を込めた沈黙のうちにその死を見守るべきところですが、この演奏では4人のソリストが配され、何やら浮わついた雰囲気…!

ベートーヴェンの交響曲「田園」よろしく、交響曲「咳」と訳すと趣が出るでしょうか。コンサートにはつきものの雑音問題を、記念すべき100周年コンサートでユーモアたっぷりに演出してみせたのがこちらの演奏です。

とくにクラシック音楽のコンサートでは静けさが大事だとされ、コンサートホールの職員は日々、雑音対策に追われています。大勢の人が集まり空調の効いたホール内では、ほこりや乾燥した空気のせいでのど元がかゆくなり、最初はエホッ、と遠慮がちに、でも1回やるとゲホゲホッ、と続いてしまい、いけない、いけないと思いながらなんとかこらえるも、こらえきれず…っグワッ!ンゴホッ!!と、変なタイミングで変な咳が出てしまう。クラシックコンサートに行ったことのある人は、静けさの中で1人、孤独な闘いを繰り広げた経験があるのではないでしょうか。

「となりの人が咳ばっかりしてて集中できない」「のど飴の袋をあける音が耳障り」「咳が止まらなくて申し訳ないと思っていたのに、隣の人にどつかれた」とのクレーム?は日常茶飯事で、コンサートホール職員は日々、お客様に成り代わってゴメンナサイ、スミマセン、と謝るわけです。袋を開ける時に音の鳴りにくい「ミルキー」を2,3粒ポケットに入れておいて、咳の止まらない人にバファリンのようにやさしく、そっと差し出すこともありましたとも。

そもそも、コンサートで静かにしなければならないというルールは19世紀後半にできたそうです。今のように、演奏家がステージに立って観客がじっと聴くスタイルが確立するにつれて、演奏家の権威を際立たせたり、秩序を保ったり、ルールを守れる上流階級っぽさを態度で示したりと、色々な背景があったことでしょう。交響曲「咳」は、誇張された咳とくしゃみの音によって、クラシック音楽と静けさの重要さを再認識させる仕組みになっています。

さて、コンサートで咳が止まらなくて困っているアナタには、以上のことを踏まえつつ、交響曲「咳」が披露されたこの日のプログラム解説を参考にどうぞ。

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親愛なるお客様へ
このホールの音響は非常に良いため、雑音がすべてのお客様にはっきりと聴こえてしまいます。咳は演奏家の集中力や、他のお客様が音楽を楽しむ妨げとなります。恐れ入りますが、コンサート中の咳や咳払いはご遠慮頂きますようお願い致します(のど飴をご利用下さい!)。なお、咳の音量はハンカチをお使いになることで劇的に抑えることが可能です。

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