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言葉と内面は、とどのつまりひとつ

言葉について考える。

政治的なことに言及するつもりはないが、あの一言が潮目だった、などというフレーズが飛び交う昨今。

よく聞けば、いろいろなシチュエーションがあるようだが、言葉はこわいなあ、生き物だなあと思わざるをえない。

もちろん、誰でも落ち着いていて、忙しくない状況であれば、適切な言葉のチョイスはできるものだ。

しかし、たとえば仕事が重なったり、感情に切り込んでこられたり、自身の体制が整わない状況で、私自身も日ごろ、どれだけふさわしい言葉の使い方をしているだろうかと考える。

とはいえ、思ってもいないことや、考えたこともないことは、違和感が発生するから、自身の言葉として使うことはまずない。同調もできないはず。

話は違うが、私の実家があった地域は、けっこう方言が強かった。父がもともと東京の人だったのでその方言を嫌ったことや、早い段階で東京に来ていることと、主人が関西弁であることにより、かつての方言はすっかり薄い記憶になっていた。

最近、月に1回ほど、もともと実家があった地域に、出張で足を運ぶようになった。地元の人たちと定期的に接することとなる。すると、ムクムクと言葉の記憶がよみがえるというか、地の言葉がたまにふっと自分の口から出そうになることに驚く。

三つ子の魂、ではないが、言葉というものは、なんだかおそろしいと感じた。自分の小手先の意思では操れない、まるで別の生き物のようだ。

言葉と内面というものは、とどのつまりひとつ。過去の経験もふまえ、いかに一致しているか、というだけのことのようだ。

不意な時に口走る言葉の中にこそ、本当の自分がいたりする。だからこそ、逆に味わい深い。



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