広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(22)
牛頭天王の起源
京都祇園社の祇園、そして素戔嗚信仰については、津和野の祇園社、つまり弥栄神社が元になっているのではないか、ということを書いてきたが、それでは京都祇園社でその本地とされる牛頭天王についてはどうなのだろうか。これに関しては、津和野祇園社弥栄神社にはその名残は見当たらないので、何らかの別の話がありそう。
播磨 広峯神社
そこで前回の播磨広峯社の話に戻ることになる。
牛頭天王の元が広峯神社だとする説があるとするが、それがいつ広峯神社に入ったのか、ということについては特に書かれていない。そこで、広峯神社の由緒記を見てみると、
とあり 、吉備真備が暦とともに導入したとされるが、そもそも中国に牛頭天王に相当するものがない以上、この話は疑わしい。そして、牛の神様をわざわざ山の上に持って行って祀るというのは個人的にはどうもすっきりしないので、多分ここが本社だというのは違うのではないかと感じる。特にそれが稲作の豊穣を祈願し、広峯信仰と呼ばれる農業の神として崇拝されたとなると、ますます山の上というのは違和感を覚える。ただし、暦と関わるのならば、農業神であるという話は納得がいく。牛頭天王が南伝だとして、水牛と稲作というイメージまではなんとかつながるが、それが山の上に祀られるというのはやはりよくわからない。やはりどちらかと言えば修験道系の信仰が元になっているのではないだろうか。この辺りは、陰陽道が修験道と暦を無理やりに結びつけようとした結果なのかもしれない。
福山 素盞嗚神社
牛頭天王が元々そことは関係がなかったとしたら、京都祇園の本社が広峯神社であったという話もやはり違うということになり、そうなると一体どこが、ということで、括弧書きで出てきた、備後一宮ともされる福山の素盞嗚神社が浮上する。
素戔嗚 天武天皇説
天武天皇八年にあたる679年に何があったか、と言うと、『日本書紀』から見てみると、吉野の盟約によって六人の皇子の序列を定め、食封方式を確立し、竜田山と大坂山に関を置き、難波には外壁を築かせた。また、仏教に関わるような政策も目立ち、食封の確立に伴って寺院の収入を国家が決定するようにし、倭京の24寺と宮中で『金光明経』を説かせ、そして王卿らが怠慢で悪人を見過ごしていると言って戒めながら恩赦によってそれまでに流罪になった者も赦すという道徳的とも言える手法をとった。一方、大陸に目を移すと、のちに阿倍仲麻呂が務めることになる安南都護府を唐が交州に設置している。『日本書紀』の年号記述が全て信用がおけるか、というとそんなことはないように感じ、だから、もしかすると、素戔嗚というのは仏教政策を強力に推し進めた天武天皇のことであり、それが巨旦将来を討った年というのがこの679年だったのかもしれない。新市町観光協会のサイトには、素戔嗚が出雲から南海まで旅をし、その途中で蘇民将来の家に泊まり、のちにその蘇民の娘を除いて、八つ裂きにして滅ぼてしまったという話が載っている。
乙巳の変の構図
そうなると、持統天皇が蘇民の娘となるのかもしれず、それによって乙巳の変の構図も違ったものが見えてくるのかもしれない。
とあり、兄弟は逆になるが、古人が巨旦将来で、それを討ったのが中大兄皇子ではなく大海人皇子であったとすれば、出雲から吉備に入って独立的な勢力を築いた大海人皇子が現在の皇子を討ってその娘の持統天皇を嫁として自分が皇位についたという可能性も見えてくる。密告者が吉備笠垂で、韓人が入鹿を討ったということになると、朝鮮半島方面から出雲に入った勢力が吉備まで南下し、そこで偽の使者か何かを送って、当時の政権の大幹部を討った、ということになるか。新羅との交流はどの程度平和的だったかの検証も必要となりそう。
乙巳の変の国際的構図と地域
ただし、この動きは唐の高句麗征伐、そして則天武后の動きとも関わっていそうで、東アジア全体の構図の中で謎解きをしてゆく必要があるだろう。隋から唐の流れを見ても、この時の出雲の勢力というのが、いわゆる騎馬民族系の、中央アジア周辺で当時勃興期だったイスラム教の影響を受けた、商業的宗教、つまり価値観の押し付けによって高く売って安く買い叩こうとする人々であった可能性が高いのではないだろうか。それを考えると、また暦ということも頭に入れると、牛頭天王ではなく午頭天王、つまり牛ではなく午だった可能性というのも十分に考慮する必要があるだろう。
ただ、それはそのようにグローバルな動きの一部でありながら、東国はもちろん、畿内だって影響があったかどうか、山陰から直接新羅との交通があったのならば、もしかしたら四国どころか九州すらも影響がなかったかもしれない非常にローカルな動きであったかもしれないということも注記する必要があるのだろう。この時期に日本全国を統治するような全国政権があったのか、そしてそれはこのような大動乱の後にいかにして可能だったのか、ということも含め、検討すべきことは多くありそう。
吉備真備と『日本書紀』の信頼性
となっているが、広峯神社もこの吉備津神社も天平六年に吉備真備が広峯神社に勧請したとしており、それは真備の帰朝前で、年が合わない。むしろ吉備がおかしいということで、備後と播磨で挟み撃ち、という構図かもしれないし、あるいは佐伯部というのが、『日本書紀』の記述によると、騒がしかったり無礼を働いたりするので「畿内に住むべからず」との景行天皇の命で、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国に送られたのがその祖であるとしているその一環で播磨に送られたり、ということがあったのかもしれない。この『日本書紀』の記述を見てみると、畿内というのが吉備を意味し、そこから追い出されたと記述しているようにも見える。この記述が誰の都合で誰によって書かれたのか、ということは、より深く考えられるべきだろう。
吉備真備についてのこの記述がずれているということは、『日本書紀』の段階で、すでに広峯神社の創建時期について齟齬が発生していたことを意味し、すなわち『日本書紀』の記述信頼性について疑問が残ることになり、そしてそれを証明するためにその創建伝承を残していると言えるのかもしれない。『日本書紀』側では、それをなんとか希釈するために、あちこちに素戔嗚、牛頭天王、祇園、さらに降っては津島や吉田といったことに関する伝承を残して、その記述信頼性に触れられないように隠してきたと言えるのかもしれない。
ただ、中国山地に葦原中国があるのか、あるいは福山の素盞嗚神社があるあたりを葦原中国と呼べるのかどうか、ということについては問題が残りそうで、どこか別のところ、中国地方ならば何度か触れている秋吉台とか、あるいは九州の阿蘇山周辺など、もう少し葦原中国らしいと言えるところが本来の素戔嗚伝承の地であったと考えられそうで、それはまた時代も場所も違う話が、『日本書紀』編纂過程で蘇我氏滅亡のところに一緒に整理された可能性が高いのではないか、とも感じる。
京都祇園社と牛頭天王
さて、広峯神社から京都祇園社に牛頭天王が勧請されたという貞観十一年は、京都祇園社に天神が降臨した年の七年前となる。ただし、祇園社では天神降臨と言っているようなので、それが当時牛頭天王と呼ばれていたかどうかは定かではない。そして、祇園社では牛頭天王を仏教の仏として考えているはずなので、天神と言っている時点で、それは牛頭天王ではなさそう。つまり、京都祇園社では貞観十八年に初めて神である素戔嗚が降臨した、という話になっていそうだ、ということが言える。ただ、素戔嗚が天神信仰の枠組みで捉えられることはあまりないようで、そうなると京都祇園社の話というのは、結局のところそれほどの波及力を持っていなかったということが言えそう。そして、京都祇園社が素戔嗚の本宮であるという話は寡聞にして聞かず、むしろ本来的には神とは認めていなかったはずの牛頭天王の本宮として広がらざるを得なかったところに、京都祇園社の現実的限界があったのだと言えそう。それは、京都祇園社が、津和野の祇園社と、広島廿日市の天神社の良いとこどりを目指した結果なのではないかと感じられる。
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