正義は動学的に定義しうるか

正義が多数の価値観の集合点をスポット的に定義するものであれば、正義は静態的にしか定義し得ず、動態的には常に複数の正義感覚が入り乱れ、それが交錯するという混乱状態となり、それが万人の万人に対する闘争という世界観を示すものになるのだと言えそう。絶対的不正義状態を定義し、それを閾値として正義の執行を行うことで正義を維持するという考え。それがある人にとっては侵略を許さない、ある人にとっては嘘は許さない、などということになるのだろうが、侵略にせよ、嘘にせよ、客観的に定義するのは難しく、だから私は議論による解決として、典型的には本人にそれを伝える、それが伝わらなければ社会的に許容された方法で問題提起するという手法を取り、それによって正義が実現される社会を期待している。

別にそれは他者に何かを強要するものでもなく、そして時期を定めて命をかけてでも実現する、という類のものでもない。そうなると、当然の如く動学的になんらかのインパクトを持つかと言えばそうはならず、社会が関心を示さなければそのまま流れることになる。

そこで問題となるのは、果たして正義は命をかけてでも実現しないといけないものなのか、ということだ。動学的に意味がないということは、正義を主張してもなんらかの強制をしなければそれは社会的には意味を持たず、正義の実現を怠っているという解釈になってしまう。そうならないために、正義は命をかけて人に強制をし、社会に実装しないといけないのか。それは果たして民主主義と相容れる考えなのか?

つまり、動態的な正義を定義するのに、強制力は必須か、それとも自発性に基づく民主的手法は可能かということになる。私はできることならば民主的手法の可能性を常に追い求めたいので、自分のできることは問題提起までで、それを強制力を持って執行するということには関わらない、と決めているが、果たして民主的社会は強制力による正義の執行というものを許容するものなのだろうか?そして、民主的な正義の感覚はいかなる形で共有され、実現されるのだろうか?

私は、現在の代表制間接民主主義は、この動態的な正義を具現化する機能を備えていないのでは、と感じており、それがより小規模な範囲での直接民主制を主張する根拠にもなっている。個別に正義の価値観を表明し、それが一定の支持を得るようになったらコミュニティのルールとし、さらに広範囲で指示が広がれば自治体ルールに格上げする、というイメージで、それに実効性を持たせるために、国や都道府県といった上部機関による規制、正義を含んだ価値観の押し付けをなくした方が良いのでは、と考えている。私自身は、国のため、とか認識できないほどの範囲の社会のためといった大掛かりな価値観の押し付けを好まないからだ。

人は個別にさまざまな価値観・正義感を持っているのだと思われるが、みんながそれを振り翳し、常に角突き合わせて生きていたら、社会はおそらくメリットよりもコストの方が高くなる。社会を形成していれば、なんとなく価値観が共有されるから、そこで共同生活の安心感が生まれる、というのが伝統的な知恵であると思われるが、近代化はとりわけ土地私有権の確立という過程を通じて、この伝統的な知恵を、絶えざる土地境界争いという不毛な近所間紛争の構図に切り替えてしまったのではないだろうか。

より環境意識が高まっている今、自然資産である土地保有の正当性に基づいて展開される正義の価値観争いからいかに脱却し、紛争に伴う環境負荷を減らし、そして排他的歴史観の押し付けあいという不毛な正当性争いをなくして、相互尊重、共存、価値観の平和的共有といった、共同体の価値を高めるような知恵を出し合うことで、人も社会も自然もより持続可能性を高めてゆく努力が求められるのではないだろうか。

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