民主主義の危機

どこかで書く、と書いた民主主義の危機について書いておきたい。

現在の民主主義の基本は、選挙で選ばれた代表が民意を代表して意思決定を行う、というものであるといえる。しかしながら、その意思決定が民意を代表しているかどうか、などというのは直接確認のしようもなく、”民意”なるものが実際に行使できるのは、選挙によって、選択肢がなんであれ、消極的選択として他の候補者に投票して反対の意を表明する、という非常に限定的な行動しかない。

そこで、”世論”なるものが重視されるようになる。世論形成については、一般の人が実際の議論の様子やその舞台裏を細かく追うことはできないので、専門的にそれを追っているメディアによる情報に頼らざるを得なくなる。つまり、メディアによる情報の出し方次第で世論はいかようにも形成されることになる。とは言っても、有権者としても、メディアの話を丸呑みするほど愚かではないので、それが信用できないとなれば、どれだけ煽っても選挙にすらいかない、という行動に反映されることになる。投票率が下がれば、世論形成を権力基盤とするメディアの立場は弱くなる。だから特にマスメディアは必死になって投票率を上げようとするのだろう。

一方で、メディア以外の確実な情報チャンネルによって”民意”を確保しようとする争奪戦も激しくなる。かつては族議員を経由したさまざまな業界団体が力を発揮していたが、特に公共事業の削減や都市化に伴う予算配分経路の変化に伴って、業界団体の力はかなり衰えてきているといえる。それに代わって一つには労働組合などを経由した、企業組織内での活動の政治化というのがあり、もう一方では特に最近、金融商品の中に政治的テーマを組み込んで、その動きによって民意の代替とする、というやり方があるように感じる。

まずは後者から見てゆきたい。元々、特に株式は、その企業の業務内容や活動内容によってトークン化され、関連テーマが話題になると値上がりする、というような構造を持っている。それが、特に社会貢献などが話題になった頃から、投資信託でテーマ設定をし、銘柄選択を含め、信託の設定側が主導するような形で、テーマによる市場形成というものがなされるようになった。それは特に最近の環境への関心の高まりによって顕著になっており、それ以外にも、例えば特に労働組合的な観点が加わったものとしては、働きやすさなどに代表される政治的なテーマも市場に反映されやすくなっている。そして、それらの銘柄の市場での評価が民意の反映と見做されるようになると、政治家は実際の民意を確かめるよりも、市場でのトークンの値動きを重視するようになり、その価格を上げるようなパフォーマンスゲームの方が重きを成すようになる。つまり、政治家の仕事が、民意を汲み取ることから、自らの政策意図に沿ったトークンの価格を上げることに変わりつつあるといえるのかもしれない。短期的な値動きはほとんど政策には関わらないのにも関わらず、そちらに一喜一憂し、そうして民意よりも値動きに影響力を持つ大口の投資家の意向の方が重視されるようになる。

片や、バリューチェーンに組み込まれた多くの”有権者”は、働いている会社について設定された政治的テーマのために、日常業務の中に、例えば”働きやすさ”の要素が組み込まれ、”働きやすさ”を実現するために理不尽と戦う演技をする、というような、何の仕事だかよくわからないものが紛れ込んでくる。それがまさにブルシット・ジョブを生み出していると言えそうだ。社内業務であぶれた人を、政治的演技をさせることで、会社や労働組合に都合の良いような政治的世論形成に使うのだ。個別の認識の集合体が政治的な空気や風を作り出すので、その目標を管理側が人為的に設定し、認識の誘導を行うことで政治的影響力をふるう、というのが、営利活動とは離れた、”政治的”な仕事となってゆくことになる。一方で、単純作業に固定し、認識を集中させることで、その念を集めた代表者の政治的オーラを形成する、というケースもありそう。大きな企業になると、経営者は、自社の運営どうこうよりも、政治的オーラを纏って政治的影響力を拡大することで、シェアを増やしたり、ブランド力をあげたり、ということをしているように見受けられる。つまり、大企業は、生産組織というよりも、政治的共同体とでもいえるような組織となり、その影響力が増すことで、投票行動とは全く独立し、そしてそれよりも直接的に政治に影響するような、仕事としての政治活動を行うものとなってゆくようなのだ。仕事が政治化することで、一億総政治、24時間万人の万人に対する政治闘争という、乱世そのもののような世界が実現することになる。

このように、株式会社という営利に最適化されたはずの組織が、生産活動よりも政治活動から得られる利益の方が大きいとなると、政治的影響力の極大化、というのが活動の一部となり、そしてそれが一方では日常業務にしっかりと組み込まれ、もう一方では株式そしてそこから派生した金融商品によって金融市場の主要な取引対象となることで、政治と一体化してゆく。その二つの経路によって、従業員の仕事はリアルタイムで政治に直結し、その政治的成果は常に市場によって監視・評価されることになる。それは、株式会社が、生産活動の効率化などは全く意に介せず、そして営利活動の評価であるはずの利益ですらも、長期的な尺度にしかならず、利益よりもさらに近視眼的な政治的評価というものが日々の仕事にとって重要になり、単なる政治機関と化すという全く本末転倒なことになってゆく。そして、その結果として政治的動きのメインストリームになることが利益に結びつく、という、まさに国家資本主義的な構造に最適化したような組織体になるのだと言えそう。そしてそれは単に一つの企業にとどまらず、バリューチェーンを通じて社会全体に張り巡らされ、国家資本主義の中での日々の政治的活動による利益の奪い合いという、異様な姿を取ることになる。皮肉なことに、民主主義がリアルタイムで実現されることによって、利益によって技術革新を促進し、それが社会を進歩させる、という、資本主義を正当化するロジックは完全に消え失せて、日々政治的闘争でパイを奪い合うだけの血生臭く、夢も希望も持てない世界が生まれることになるのだ。現代日本は、このメカニズムにあまりにピッタリとはまり込んでしまって、それゆえに生産性も伸びず、ひたすら徒労におわる”労働”が行われているのではないだろうか。

このように、民主主義の危機は、資本主義の有効性すらも食い潰して、巨大な政治的国家資本主義体制を作り出しているといえる。これを何とかするためにも、代表制民主主義というものをやめ、政策に有権者が直接意思表示する直接民主制を導入することで、資本主義と民主主義をきちんと分ける必要があるだろう。代表という名で権力を持った政治家が、日々の民主主義ゲームであそび、その刺激を得るために、あるいはブルシット・ジョブから抜け出すために、皆が権力闘争をして有利な立場に立とうとする、まさに”政治工学”を具現化したかのような、そんな虚しい権力闘争を合理化するような”民主主義”はない方がマシだろう。

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