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金融ビッグバンの国際的文脈

金融債、というか長信銀が以下にして表舞台から姿を消したか、ということを見るのに、様々な要素はあるのだが、98年の金融システム改革のための関係法律の整備等に関する法律(金融システム改革法)の成立による、いわゆる金融ビッグバンの影響を見過ごすことはできない。この法律は、様々な金融制度改革を一括して行ったもので、それ自体に長信銀や金融債に直接関わる項目はないとはいえ、この法律によって金融制度をアメリカのやり方に近づけることが志向され、それゆえに日本独自の制度であった金融債の仕組が狙い撃ちにされ、その法律の制定に前後して山一證券の自主廃業、日本長期信用銀行、そして日本債券銀行というふたつの長信銀が相次いで国有化されるということになったのだと言える。

金融システム改革法の制定経緯

では、その金融システム改革法がどのように生まれたのか、ということを国際的文脈から見てみたい。この法律は、当時経済企画庁の下にあった経済審議会が、96年の3月に総会を開き、その中で定められた六つの作業グループの一つ、金融ワーキンググループによる、10月17日の提言に基づいて作られたものである。その提言は総選挙の3日前のことであり、おそらく自民の勝利ながら単独過半数には至らないという選挙情勢がほぼ固まった状態で出されたもので、それによって、自民党であろうが、野党第一党の新進党であろうが、どちらが政権をとっても進められるように、という保険を効かせた提言発表だったと言える。それは、社会党を中心とした自社さ政権の村山内閣から禅譲を受ける形で96年1月11日に発足した橋本内閣の下で動き出したプロジェクトであり、大蔵大臣は社会党の久保亘が務めていたが、とてもではないが激動の金融経済情勢に対処する能力を持っていたとは思えない人物で、提言についてなんらかの報告を受けていたのかどうかは知らないが、仮に受けていても、その内容を理解できたとは思えない。大蔵大臣という重要閣僚を、おそらく逃げたのだろうが居抜きの武村正義ならばともかく、社会党のしかも経済についてまともな知見を持っていたとは到底思えない人物に任せて、経済についての大改革のプロジェクトを始めるというところに橋本政権の本質が見て取れる。いずれにしても、経済審議会は経済企画庁の管轄下であり、担当の経済企画庁長官は新党さきがけの田中秀征であった。彼は、石橋湛山に私淑していたということで、旧平価での金解禁に反対した師匠の石橋湛山に倣うかの如く、日本経済の独自性というよりも、国際経済への従属性を強めることを志向していたと言える。金融ビッグバンの動きは、そのような政治的背景のもとで始まったのだった。

アメリカの情勢

この金融ビッグバンによって必死になってすがりつこうとしていた相手であるアメリカは、その頃クリントン政権一期目の最終年であった。”It's the Economy, Stupid!”と言って大統領となったビル・クリントンであったが、実はその最初の2年間は経済が全く振るわず、中間選挙でニュート・ギングリッチ率いる共和党に敗れ、40年ぶりに上下両院を野党である共和党が占めるという異常事態となっていた。それを受けて、経済に梃入れする必要を感じたか、財務大臣がロイド・ベンツェンからロバート・ルービンに替わっている。88年大統領選挙に副大統領候補として臨んだベンツェンは92年大統領選挙民主党予備選に出馬する意思を持っていたが、結局取りやめたということもあり、本人は任期一杯まで財務大臣をやって一緒に沈む気はない、というようなことを言っているが、更迭であったと考えるべきか。根っからの政治家であったベンツェンに対して、ルービンはゴールドマンサックス出身の完全に金融界の人間であり、鞘取りで名をなしたこともあり、グローバル金融市場のアメリカ化によって最も大きな利益を得る人物であった。

クリントン外交の影響

そんなクリントン政権は、アジア外交においては大きく中国に軸足を動かしていた。折しも、クリントン大統領就任2ヶ月後には江沢民が国家主席となり、党総書記、中央軍事委員会委員長と併せて、名実ともに最高指導者となっていた。その江沢民は、朝鮮半島で韓国と92年8月に国交正常化を行う一方で、核問題で突出する北朝鮮との間には距離を置くようになっていた。そんな北朝鮮に社会党議員とともに出向き、独自外交を展開しようとしたのが金丸信であり、それを受けた宮沢内閣で外務大臣としてその路線を推進しようとしていただろうと考えられるのが渡辺美智雄であることはすでに述べた。そんな宮沢内閣は、アメリカ大統領選挙の結果を受けて内閣改造を行ない、そこで官房長官として入閣したのが河野洋平であった。これは、クリントン政権の誕生により、外交ラインが親中国に切り替わり、その中国が朝鮮半島でのポジションを北朝鮮から韓国に切り替えていたということで、共和党政権下で進んでいた北朝鮮との対話路線、そしてそれを引き継いだ渡辺美智雄からルートを切り替える必要が出てきて、そこで河野洋平を登用して、のちに慰安婦問題での官房長官談話を出すなどして、強引に韓国・中国路線へ走ることになったのだろう。なお、河野洋平は新自由クラブ時代に北朝鮮に正式代表団を送るなど、どちらかといえば北朝鮮寄りであり、それを韓国に切り替えるためにはかなりのお土産が必要だったと言え、それが慰安婦問題という形で表面化したのであろう。これによって、アメリカの政権交代、さらにはアジア外交の変化に対して、多方面土下座外向へと舵を切ったのだ。河野はその後、94年8月の村山政権誕生に際して副総理兼外務大臣となり、この路線を担当大臣として進めることとなった。

1995年の混乱

そんな矢先の94年11月に中間選挙での民主党敗北、そして年明け早々のルービン財務長官就任となったわけだ。これに対して、どんなご祝儀を送るべきか、ということでさまざまな思惑の交錯があったのではないか。そして、そんなことが、河野の地元神奈川の横浜と並ぶ大貿易港神戸の輸出についての見通しに混乱をもたらし、ルービン就任6日後の阪神大震災の発生に繋がった、などと考えるのは、オカルト、陰謀論じみているか。いずれにしても、さまざまな認識の激動が世に天変地異、あるいは地下鉄サリン事件のような社会的事件を含めた混乱をもたらし、その大きな原因として急激な国際環境、国内情勢、それをつなぐ外交政策の変化というものがあったのかもしれない。

橋本龍太郎

河野は結局村山政権下でずっと外相を務め、ルービン財務長官の誕生に伴う外交情勢の変化に対応した。その村山政権で、自民党総裁となって副総理と通産大臣を務めていたのが橋本龍太郎であった。橋本は総理となった後、行政改革にも積極的に取り組み、それがのちに省庁再編へと繋がっていくわけだが、そこで槍玉に上がったのが大蔵省であった。通産大臣としてルービンに手土産を持って行こうとしたら悉く退けられ、結局金融制度改革に誘導されたのかもしれない。あるいは、ルービンが財務長官となった95年は、その名の示す通りWindows95が発表された年であり、それについての互換機開発などを主導したのかもしれない。日本には富士通やシャープといった独自アーキテクトのPCメーカーが大きな存在感を持っていたのにもかかわらず、Windows95の発表以降はそれが動くIBM互換機に収斂されてゆき、独自性を失った。それは、半導体のコモディティ化にもつながり、それによって価格競争力を無くした半導体事業は国外へ流出することにもなった。これは夢想に過ぎないが、仮に独自アーキテクトのPCとガラケーが主流となっていたら、少なくともウイルスに対するセキュリティは多少高くなっていた(というか狙われにくくなっていた)と考えられるし、ハード的にもソフト的にもさまざまな可能性が広がっていたのではないだろうか。実際アメリカではそれを大きな画期として、クリントン政権の名を歴史に刻むことになるドットコムバブルが発生することになる。そんな橋本が総理となって、金融ビッグバンへと突っ走った。「アメリカ国債を売りたいという誘惑に駆られたことがある。」などと言っている脇で、大事な国内の金融制度を大きく売り払っていたのだ。この金融制度改革の議論中からその実行に至る時期の国内金融経済の混乱ぶりと言ったら、目を覆うばかりで、そんな中で長信銀も激動の波間に消えてゆくことになる。その辺りは、経済に集中して別の角度から見た方がわかりやすいので、別稿に譲ることとする。

おまけ

政治、政局については基本的にあまり関わりたくはないのだが、冷戦終了後、特に湾岸戦争以来非常に重要な外交局面を政局に利用し、それを切り刻んで権力獲得のために用い、そして最終的には、不信任案採択後の内閣官房長官、尚且つ自民党の総裁として、河野談話という非常に悪質な、公的な風を施した私的感想を、どの立場で言ったのかよくわからない形で残し、国内政治はもちろん、国際政治的にも非常に大きな禍根を残している河野洋平という人物をどう評価するのか、というのは、もしかしたらその河野談話から30年となる年に総裁を務めることになる人物を選ぶ際には、きちんと総括した方が良いのではないだろうか。その内容の総括はもちろんのこと、不信任案採択後の官房長官談話の有効性、自民党総裁としての発言の評価、そしてそのような政治的意図を多く含んだ状態で問題の残る発言を形式的には公的発言として残すという行動を取る人物の評価と言ったさまざまな点から総括しないと、おそらく日本の政治はこの先もここまでの30年と変わらないことを延々と繰り返すことになるのだと思う。そしてその間に世界からどんどん取り残され、そのまま歴史の流れの中に消えてゆくのではないかと危惧する。いずれにしても、それは、有権者という立場では、特に小選挙区制(その導入に大きく関わったのもまた河野洋平である)では、関係のない選挙区民ではどうすることもできないことであり、当事者がどう考え、どう総括するのか、ということに尽きるのだろう。そして、この無力感がある限り、政治不信はどこまで行っても止まらないし、そうである以上、庶民はいかに政治とかかわらずに社会をまともに、とまで言わなくても、少なくとも自分が不快に感じないで済むように生きていけるかを、自己防衛的に考えるしかないのだろう。

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