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【Lonely Wikipedia】 イギリス帝国

ブレトンウッズ体制が乗っ取ろうとした イギリス帝国、スターリングブロックの実態はどのようなものだったのかを追ってみる。

イギリス帝国(イギリスていこく、英語: British Empire)は、イギリスとその植民地海外領土などの総称である。大英帝国(だいえいていこく)ともいう。
帝国は時代ごとの性質により、以下のように区分される。
1. アイルランド北アメリカ大陸に入植し、北米植民地およびカリブ海植民地との貿易を中心にした時代
2. アメリカ独立からアジアアフリカに転じて最盛期を築いた19世紀半ばまでの自由貿易時代
3. 自由貿易を維持しつつもドイツ帝国など後発工業国の追い上げを受け植民地拡大を行った帝国主義時代
4. 20世紀に入って各植民地が独自の外交権限を得たウェストミンスター憲章以後の時代
一般に大英帝国と呼ばれるのは、特に3と4の時代である。1と2を「第1帝国」、3と4を「第2帝国」と呼び、後者の繁栄を象徴するものとしてはイースタン・テレグラフ・カンパニー(大東電信会社)の海底ケーブルが挙げられる。また大英帝国の植民地支配が世界中に広がったことで英語が世界の多くの地域で日常語、公用語として用いられるようになった。その結果、英語は事実上の国際語、世界共通語として用いられるようになった。

大英帝国という名でなじんできたが、Wikipediaでは「 現在、歴史学で多く用いられるのは「イギリス帝国」という表現である。」となっているので、Lonely Wikipediaではその表現に則って表記したい。さて、上記のように、 イギリス帝国と言っても時期によって様々な範囲、様相があるわけで、それを全部追ってゆくわけにも行かないので、「第2帝国」特に4のウェストミンスター憲章を中心に、植民地の独立に至るまでのところを見てゆきたい。

さて、どこから「第2帝国」に入ったと考えるか、という事であるが、これは私の個人的な区分けだが、

東インド会社が持っていたインド貿易の独占権は1813年に失効し、残された中国貿易独占権も1833年に失われると、東インド会社は商事会社としての機能を喪失し、完全に政治組織へと変貌した。
イギリスは中国の広東開港によって1711年には広州に商館を設立し、中国茶を輸入する広東貿易に従事しているが、本国での紅茶ブームにより貿易赤字が急増したためインドのアヘンを中国に売り込み清朝アヘン戦争(1839年~1842年)を引き起こした。

という辺りが一つの区切りとなりそう。上の区分けでは2が自由貿易時代となっているが、実際には、東インド会社への特許状の更新がなされず、植民地貿易がまさに自由化されたところからが自由貿易の時代というべきであり、それによって本国と東インド会社との間に齟齬が生じ始めたことによって、東インド会社がいわゆる帝国主義化していったところから「第2帝国」が始まったとみなすべきで、その象徴としてのアヘン戦争があるのだろう。
アヘン戦争の背景については

アヘン戦争自体、本国と東インド会社との間の連絡がうまくいかずに、結果的に軍事衝突にまで至ってしまった、ということがありそうで、自由貿易を目指した結果として帝国主義的になってしまった、非常に皮肉な例だと言える。それ以降、イギリスはむしろいかに海外の植民地を整理してゆくか、ということに腐心するのだが、皮肉なことに、原則がしっかりしている故に、現地の隣接地域の内乱などで一方から頼られる、というようなことが頻繁に起き、それによって見かけ上帝国主義的展開がどんどん進んでゆく事になる。

1818年にはムガル帝国に代わってインドの最大勢力となっていたマラーター同盟を解体。1848年にはパンジャーブに勢力を張っていたシク王国を滅亡させ、ムガル皇帝まで傀儡化するようになった。
1857年、イギリスの植民地支配に対し、シパーヒーが蜂起した。シパーヒーは皇帝バハードゥル・シャー2世を反乱軍最高指導者として擁立し、ムガル帝国の再興を宣言した。しかし、この反乱の勃発自体が突発的であると同時に、統率が全くなされていなかったことから、デリーをはじめとする反乱は東インド会社の軍隊によって、翌年までに鎮圧された。

マラーター戦争は相続争いに巻き込まれた結果であり、シク戦争はその前哨戦となるアフガン戦争を東インド会社が主導しており、シク戦争もどちらかと言えば東インド会社主導であると考えて良いのではないかと思われる。そしてその東インド会社の統治の限界が表面化したのがインド大反乱であり、これによって問題の多かった東インド会社による統治が廃止され、東インド会社解散の上、エリザベス女王を皇帝とするインド帝国が成立した。それ自体まさに帝国主義的であるといえばその通りだが、元のムガル皇帝が反乱を起こした上、統治する東インド会社も解散したのでは、エリザベス女王を皇帝にする位しか安定統治を維持する方法はなかったと言える。戦争というのは、まさに見方が様々に分かれた結果として起こるものなので、一面的な評価はできないが、私は、少なくともイギリスという国家が帝国主義を目指してインド帝国を作ったという見方には与しない。むしろ東インド会社による帝国主義的手法の緩和策としてのインド帝国であろうという解釈をする。ただ、ビルマ(現ミャンマー)については更に複雑なので、一概にこの解釈が通じるとも言えない。
その他、1867年には英領マラヤが王室領となったが、元々ロンドン条約でオランダから得たマラッカを、ペナン、シンガポールと共に植民地化したものを、東インド会社の弱体化に伴って王室領としたものだった。このあたりまでは、帝国主義的性質は主として東インド会社に見られただけで、国家としての帝国主義的傾向はそれほどはなかった。

1884-85年にかけてベルリン会議が開かれた。

ベルリン会議(ベルリンかいぎ、独: Kongokonferenz、英: Berlin Conference)は、1884年11月15日から1885年2月26日までドイツ帝国の首都ベルリンで開催された国際会議。列強コンゴ植民地化をめぐる対立の収拾が図られるとともに、列強による「アフリカ分割」の原則が確認された。
* 占領が認められる条件はヨーロッパ人の活動(通交・交易)を保障できる実効支配が行われていることが必要である。
* ある地域を最初に占領した国がその地域の領有権をもつという先占権をもつ。(沿岸部を占領した国が内陸部の併合も認められる)

列強による植民地獲得競争の流れを決定づけたこのベルリン会議で、実効支配と先占権の原則が定められたことで、力任せと早い者勝ちの植民地化が国際的なルールとなってしまった。それによって、あの広大なアフリカはわずか30年程の間に列強7カ国によって切り刻まれることになってしまった。そしてそれはアフリカだけに留まるものではなく、その翌年におきたイギリスのビルマ併合は、フランスとの進出競争の結果であると言え、そしてその波は一気にアジアに襲いかかって、日清戦争から始まる大戦乱の時代を演出することとなった。

一方でイギリスは、

特に白人が人口の多くを占める植民地に自治権を与え、自治領(ドミニオン)とするようになっていった。最初のドミニオンはカナダで、1867年、英領北アメリカ法によって3つのイギリス北米植民地が連邦を組んだ際にドミニオンと称するようになった。ついで1901年には6つの植民地が連邦を組んだオーストラリア連邦が自治領化し、1907年にはニュージーランドとニューファンドランドが、1910年には南アフリカの4植民地を連邦化した南アフリカ連邦が、それぞれ自治領化した。これらの自治領との連携を深めるため、1887年から開催されてきたそれまでの植民地会議を1907年に帝国会議と改称し、帝国会議に出席できる自治領は従属的なニュアンスを持つ「植民地」(Colony)ではなく「ドミニオン」(Dominion)と正式に称されるようになった。

と自治領化の流れを進め、植民地主義からの脱却を図っていた。帝国主義化と脱植民地化は、少なくともイギリスにおいては同時並行的に進行していたのだ。実際、アフリカにおいてもベルリン条約後のイギリスの新規植民地は元々沿岸部を支配していたガーナとナイジェリアの内陸部、東アフリカでドイツとの争いが激しかったケニア、そしてオランダ系入植者との争いがあったケープ植民地からその首相セシル・ローズの主導で内陸進出したローデシアに留まっており、その間のボツワナは現地勢力からの依頼に基づく保護領化であった。つまり、新規の植民地獲得競争にはかなり控えめにしか参加していないのだ。

第一次世界大戦においてはすべてのドミニオン・植民地が参戦したが、この戦いにおいて大きな協力をしたドミニオンは発言権を強め、1917年には各ドミニオンの代表が参加した帝国戦時内閣が開催された。しかし、戦闘に対する決定権はあくまでもイギリス戦時内閣が握っていた。第一次世界大戦が1919年に終了すると帝国の支配体制は揺らぎはじめ、1921年には連合王国の一員でありながらかねてより独立の動きが強かったアイルランドが独立戦争の末ドミニオンの地位を獲得した。各ドミニオンはさらに独立傾向を強め、1926年の帝国会議ではアイルランド自由国アフリカーナー主体の南アフリカ連邦が帝国離脱を要求。これをうけて、イギリス本国と各ドミニオンとが対等であるとするバルフォア報告書が作成され、それに基づき、1931年ウェストミンスター憲章が発表され、既に事実上成立していたイギリス連邦体系に法的根拠を与えた。この憲章より英国の海外自治領に外交権も与えられ、英国本国とは「王冠への忠誠」で団結(言い換えれば同君連合)した平等な共同体と規定されることになった。

このように、イギリスは、第1次世界大戦を機に植民地の独立性を高める方向に大きく踏み出していた。スターリングブロックが定められたオタワ会議は、このウエストミンスター憲章の翌年どころか、7ヶ月後のことなのである。一般的には第1次世界大戦によってイギリス帝国の力が落ち、帝国の解体をブロック化によって止めようとした、という風に解釈されるのだろうが、実際にはドミニオン化は第1次世界大戦前には主要植民地では終わっており、オタワ会議はウェストミンスター憲章によって定められた法的地位を実際の経済制度として固めたのに過ぎないのだ。

1939年9月にイギリスがドイツに対し宣戦布告した際、直轄植民地とインドは含んでいたが、他の自治領が自動的に参戦したわけではなかった。カナダ、南アフリカ連邦、オーストラリア、ニュージーランドはまもなく参戦したが、アイルランドは戦争終了まで中立を保った。1940年のドイツのフランス占領後、1941年ソビエト連邦への侵攻まではイギリスは単独でドイツに対し応戦した。
第一次世界大戦同様、帝国防衛におけるインドの役割は大きかった。インドは215万の兵士・労働者を海外に派兵し、各植民地の中でもインドの戦時協力は格段に大規模なものだった。一方で大戦での戦時協力は経費負担の点で第1次世界大戦とは大きく異なっていた。1939年11月に英印防衛費協定が締結され通常経費とインド利害の防衛に関わる経費を除く、全ての費用はイギリス本国政府が負担することになった。この協定は英印間の債務・債権関係を逆転させることになり、大規模な戦時協力はインドを債権国の立場にたたせることになった。

第二次世界大戦においても、イギリスは戦時中から明らかに脱植民地の流れの中で行動している。自治領に参戦を強制せず、植民地であったインドは戦費を本国が全部負担した上での参戦となり、植民地からの収奪なしに大戦を戦ったのだ。第2次世界大戦の結果としてイギリス帝国が崩壊したのではなく、意志を持って帝国解体中にたまたま世界恐慌や第2次世界大戦が起こった、と言う見方の方がより正確なのだろう。

1947年8月のインドおよびパキスタンの独立・分離を皮切りに、50年代から60年代にかけてアジア、アフリカの植民地は次々と独立していった。インドは全域をイギリスが支配していたので、状況はやや複雑だが少し遅れたとなりのミャンマーも含めて戦後すぐに独立させることができたが、アジア、アフリカ諸国については、周辺諸国との関わりからその時期が定まったのだろう。マラヤについては、2年前に隣国インドネシアで議会総選挙が行われており、安定の見通しが立ったから57年の独立と言うことになったのだろうが、結局インドネシアはその後混乱に突入、更にベトナム戦争も始まると言うことで、そのタイミングでなければ独立できなかったかも知れない。アフリカについてはいろいろ複雑な事情がありそうで、今はまだちょっとわからない。

とにかく、摩擦の少ない脱植民地化を目指していたイギリスが、結果的に帝国主義の中心のようなイメージを作られてしまったのには、やはりブレトンウッズ体制でイギリスの存在感をなるべく小さくしてアメリカが主導権を握る、というプランの中で起こったことではないかと考えられる。

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