広島文脈の結晶・宏池会の源流4

これまでの流れは、

ソ連から帰国後すぐに引退を表明した鳩山一郎の後を受け、初めて自民党の総裁選が開かれた。1回目の投票では岸信介が勝利を収めたが、決選投票で3位だった石井光次郎が石橋湛山と組んだことから、石橋が第二代の自民党総裁に選ばれた。昭和31丙申年(1956年)12月23日に石橋首相だけが認証を受け、全閣僚を兼任という異例の内閣の船出となった。

これには国際情勢が大きく影響していた。11月6日にアメリカの大統領選挙があり、アイゼンハワーが再選されている。その直前に起きたハンガリー動乱やスエズ危機を含め、この年の慌ただしい国際政治日程は全てここに合わせて行われていたとみて良いのだろう。というのは、アイゼンハワーは健康状態が危ぶまれており、いざとなったらFDRの時のように任期途中で世を去って再び原爆を含んだ戦争状態が起こりるるのでは、という見通しがある程度あったのではないか、と考えられるからだ。第二次世界大戦で敗戦国が大幅に貧乏籤を引かされたことを考えると、誰も負け組に入るわけにはいかない、ということで必死の駆け引きが繰り広げられたのだと考えられる。特に満州絡みで利権を持っていたところは、ソ連の方向感次第でどうなるかわからなかったので、早めに蓋をしてしまう必要があったのではないかと疑われる。岸も満州組の中心的な革新官僚出身であり、総裁選に勝ったとしても、不透明な段階で火中の栗を拾うこともできず、そこでひとまず石橋に政権を振ったのではないだろうか。石橋湛山は日蓮宗信者であり、ここで岸に恩を売ったことで政界にその宗教的影響力を大きく広げ、その上全閣僚を兼任したことで、全ての事項について宗教的なアクセントを入れたのだと考えられそう。

明けて昭和32丁酉年(1957年)1月1日、フランス統治下にあったザールランドが西ドイツに返還された。59年まで独自通貨を用い、切手も独自のものを発行するという非常に変則的な返還であり、何かが起こった時の保険のような意味合いがあったのではないかとも考えられる。1月5日にはアイゼンハワーが中東への軍事介入を含んだ方針を示したアイゼンハワー・ドクトリンを発表した。1月9日にはイギリス首相アンソニー・イーデンが辞任し、翌日にハロルド・マクミランが首相となった。この辺りの動き、イギリス政治がポイントとなっているようだが、今はちょっと追いきれない。1月20日にはアイゼンハワーが2期目の大統領宣誓を行い、同日にイスラエルがシナイ半島から撤退している。

一応大統領が2期目に突入して多少落ち着いた状態になって、1月31日に石橋湛山が病気となり、岸信介が臨時代理となった。翌2月1日に吉田茂と佐藤栄作が自由民主党に入党し、22日石橋が辞意表明、翌日総辞職、25日に岸内閣が成立した。それに先立ってすでに2月4日には、石橋が総理就任以来1ヶ月経っても行っていなかった施政方針演説を、岸が正式就任以前に行なっている。にもかかわらず、この岸が自民党の総裁に選ばれたのは、岸内閣成立後1ヶ月もたった3月21日であった。臨時代理を20日も勤めていたのだから、その間に総裁選をやって総辞職をするというのが筋のはずだが、それが為されなかったのだ。総理を含め、閣僚もおそらく正式認証されていなかったであろうから、これは演説を行った岸、池田、宇田による、半ばクーデターとでもいえるような異様な施政方針及び政府四演説であったといえる。鳩山、石橋、岸という自民党結党以来3代の総理総裁がこのように異例な形で政権与党の基礎を作ったということが日本政治に大きな歪みをもたらしているといえる。これによって、日本政治は完全に、満州の歴史と、日蓮宗という宗教の文脈の中に組み込まれてしまっているのだと言えよう。

岸内閣では、南満州鉄道勤務経験があり、中国にも出征していたという宇田耕一が経済企画庁長官と兼任で原子力委員長を務めていた。この人物、満鉄勤務から中国出征までの経歴には疑義があり、岸と一緒に満州で動いていた可能性がありそう。ただし、改造内閣では原子力委員長は正力松太郎に代わっている。また、大蔵大臣には池田勇人が就任している。第一次岸内閣は予算を通すためだけの内閣であったと言って良いので、その点でこれは池田のための内閣であったとすらいえる。この内閣では、第一次防衛力整備計画が定められており、それが定まってすぐに改造しているので、池田はこれに絡みたかったということになりそうだ。この計画で第一次FXが盛り込まれ、その導入を巡ってのちに不正疑惑によってグラマンからロッキードに切り替わるということが起こり、それがロッキード事件へと繋がってゆくことになる。この第一次FXには河野一郎が非常に深く関わってくるので、これは満州権益とは直接関係はなかったが、そこに食い込みたかった池田が河野に擦り寄ったのかもしれない。改造内閣では池田は退任し、一万田尚登が蔵相となっている。

3月7日にはアメリカ議会がアイゼンハワー・ドクトリンを承認し、翌8日にはエジプトがスエズ運河を再び開いてスエズ動乱が終了する。結果的に、これは、アメリカがそれまで全く勢力範囲外であった中東に対して武力介入のオプションを持つために起きた事件であったとも言えそうだ。これによって、英仏はイスラエルの保護者的役割を降り、アメリカがそれに取って代わったことになる。4月25日に防衛庁設置法改正案の議論の中で、日本政府が攻撃的核兵器を自ら持つことは違憲であるとの統一見解を示した。5月15日にイギリスが初の水爆実験を行う。7月29日に国際原子力機関(IAEA)が設立される。これに関しては、日本は設立に先立ってアメリカよりも早く7月16日に条約を批准している。IAEAの設置は前年の10月23日、日ソ共同宣言の4日後に決まっており、核の平和利用への動きは、不穏な世界の動きとは別に少しずつ進んでいた。8月21日にはアイゼンハワーが2年間の核実験凍結を発表した。しかし、皮肉なことに、その後に核に関わる事故が連発する。9月29日にソ連ウラル地方でウラル核惨事と呼ばれる原子力事故が発生したというが、これはソ連が崩壊してロシアが発足するまで公表されなかった。10月10日にはイギリスのウインズケール原子炉で火災事故が発生した。

さて、日本での原子力政策について引き続いて見てみる。東海村の実験炉JRR-1が同年8月27日に臨界に達したことから、原子力発電についての議論が急に盛り上がる。原子力委員長の正力松太郎が原子炉の輸入によって早期の実用化を目指す一方で、7月の内閣改造で経済企画庁長官となったばかりの河野一郎が国産技術による開発を主張したとされる。これは、河野一郎お得意の、すでに原子力発電を行うことを暗黙のうちに前提とした上で、いかにも自分が慎重派であるというポジションをとって議論を展開するという政治的茶番だといえそうだ。改造前は経済企画庁長官が原子力政策を所管していたのが、原子力委員長に正力が就任したことで所管がそちらに移った後で経済企画庁長官河野との間で行われた、いわばガス抜き的な議論であったとも言えるが、結局湯川秀樹が原子力委員を辞任し、学術会議も反対する中で、その声は河野一郎が政治力としながら、正力の輸入原子炉案が採用され、英国から原子炉を輸入して原子力発電への道が開かれたことになる。もっとも建設開始はそれよりも2年も経った昭和35庚子年(1960年)なので、この議論自体どこまで実態があったものなのか疑わしい。

池田勇人の組んだ予算は、年度中に原子力発電の方向性を定めるということを基本にたてられていたと考えられ、それを実現するために河野の茶番が必要になったと考えられそう。ただ、これについては、その政治的影響力は第一次防衛力整備計画によって3年は先延ばしされていると言え、むしろ3年以内に原発導入を確実にするための茶番であったと言えそう。実際のところ、その時点で商業用として実績のあった原子炉はイギリスコールダーホールの原発2基だけで、しかもかなり疑わしいソースによれば前年56年10月と明けて57年2月に運転を始めたばかりとされ、とてもではないが実績などといえるものではなかった。さらに言えば、建設開始が55年8月とされており、建設開始から1年強で運転が始まるというのは、その後の他の原発の例を見ても見当たらない。最初の商業用でそんなに早く運転を始めるということは考えにくい。この辺り、導入経緯を含めて事実関係が明らかになっていないことが多くあると考えられる。そして、この英国からというのも、アメリカのGEとは別の英国GECという会社から導入したともされており、本当に英国からだったのかということも含めて調査すべきなのかもしれない。さらには、事故の起こったウインズケール原子炉自体はコールダーホールではないが、そのすぐそばにあるもので、イギリスの原子力技術自体に疑問が持ち上がっても不思議ではないが、そのまま導入が進められたというのも非常に奇異に映る。いずれにしても、予算を立てたところで即座に導入できるような環境では全くなかったといえる。そんな状態で、政治的に言えば、「白洲がつき、池田がこねし、原子力、座りしままに食うは河野」とでもいう感じだったのかもしれない。

その食べ方を少し想像してみる。その頃、河野一郎の息子洋平は大学生で、早稲田大学に通っていたとされるが、その後昭和34己亥年(1959年)に総合商社の丸紅に入社し、3年目にアメリカスタンフォード大学に留学したとされる。アメリカの通常のスケジュールである秋学期入学であれば、62年の秋に入学し、2年で64年の夏に帰国となる。しかし、のちに河野洋平が副社長となる日本ナスカーは昭和38癸卯年(1963年)12月設立で翌昭和39甲辰年(1964年)1月にはNASCARとの契約が成立している。その後NASCARとの契約は破棄されるのだが、いくら父親河野一郎の筋で出てきた話だとしても、せっかく成立した契約を破棄させるためだけに副社長になるとは考えられない。そこで、会社設立に関わっていたのだとしたら、1年留学でその間にNASCARとの間に関係を作り、帰国後すぐに会社設立準備にかかって年末設立、年明け契約成立ということになるだろうが、河野洋平は食品部の所属だったとされ、いくら商社とは言え全く畑違いの話をとってきて、しかもすぐに契約破棄で会社を辞めて選挙に出るなどということは流石に通らないだろう。だとすれば、留学は学生時代の交換留学か何かだったと考えたほうがよほど筋が通る。そうなると、河野洋平の留学は原発導入の時期と重なることになり、原子炉は河野洋平が絡んで英国からではなくアメリカから導入したという可能性も出てくることになる。ただし、この辺りは推定に推定を重ねているので、確実性には乏しい。スタンフォードに絡んでアメリカ側でも疑わしい情報がそのあたりに集約しているようにも感じられ、河野洋平が自らの傷口を最小限に抑えるために現在進行で情報操作をしている可能性がある。

傷口を最小限に抑えるとは、河野家三代の地盤について考えることでその背景が見えてくる。河野家は小田原周辺の神奈川西部を地盤としている。小田原は、戦国時代の北条氏の時代から小田原城の城下町として栄えたとされるが、東海道五十三次の浮世絵では、酒匂川の渡しが主として描かれた絵となっている。酒匂川は暴れ川として昔から洪水に見舞われ、川筋もよく変わっていたという。そして、駿河から相模に入るのには北の足柄峠越えもあり、そのルートをとられたら、酒匂川もあって小田原城というのはほとんど戦略的価値を持たない。特に甲州方面からであれば、間違いなく足柄越えをするはずで、そのルートをとられたら小田原城は関東と完全に遮断されてしまい、そんなところを本拠地にする理由が全く見当たらない。つまり、細かな議論はできないが、小田原城は、戦国時代はもちろん、江戸時代となっても実はなかった可能性があるのだ。あったとしても再建後とされる天明5年以降ではないかと考えられる。

そして明治維新後解体されたとされる小田原城の場所には、明治34年から関東大震災まで御用邸があったとされ、すでに少し触れたように、河野一郎は震災後の土地権利関係整理に関わっていた可能性がある。御用邸があったのならば皇室領であったと考えられるが、これは想像に過ぎないが、そこに震災被災者を連れて入植することで自らの政治的地盤を作り上げたのではないか。これも細かな議論は避けるが、小田原というのは織田原に通じ、戦国時代の織田信長の話を関東方面にまで拡張させるのに都合の良い名となる。もちろん信長自身は関東にまでは行ってはいないのだが、中央の話を関東に接続させるには、武田を絡めて関東の入り口に小田原という地名を置くのが非常に重要になる。

それは当然非常に無理のある話なのだが、その無理が、河野一郎の対ソ交渉と合わせて、技術的にまだまだ無理のある原子力を推進するエネルギーの政治的基盤になっているのではないかと疑われるのだ。戦後に、関東とは全く縁のない織田信長なる人物から始まる三英傑による天下取りの話が大きなトレンドとなるのは、そのような政治的な事情によるものではないかと考えられる。関東にとってみれば、徳川家康なる人物が突然国替えによって入ってきてそれが受け入れられた事情の方が遥かに重要なのにも関わらず、それは京都視点で秀吉によって国替えを命じられたから、という、関東的には全く関係のない話で整理されてしまっている。さらにその前の織田信長に至っては関東とは一切関わりのない人物で、いわばナポレオンの話を日本の歴史の起点にしようとでもするような非常に無理のある話なのだ。

一方で、池というのが池大納言平頼盛の平家没官領の権利保持者としての文脈から生まれており、そこから池田氏が派生しただろうということは別に述べたが、その池田という姓が大きく表に出てくるのは、摂津池田氏という信長と関わる勢力、そして何よりのちの岡山藩につながる池田恒興という信長の乳母子とされる人物そしてその子輝政からであるといえる。河野の小田原支配のために、信長に絡んで池田という名が必要になり、そこで池田を押し立てることで河野が勢力を拡大した、という構図が考えられそうだ。つまり、河野一郎という人物は、戦国時代から関東大震災に至るまでの土地がらみの怨念を政治的に原子力に込めたのだとも考えられる。もし核燃料サイクル、あるいは廃棄物処理の技術的未熟さがそのような怨念によって政治的に支えられているとしたら痛ましいことこの上ない。いずれにしても、原発導入の経緯についてはまだまだ不透明なことが多く、さらなる解明が求められる。

この後原子力は河野一郎の春秋会に属していた中曽根康弘、そして河野洋平が握ることになり、河野洋平が新自由クラブから戻って参加した宏池会は、好むと好まざるとに関わらず広島文脈を持ってそのベースラインを奏でていたことになりそう。

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