広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(18)
祇園社と吉田
津和野の祇園社についてみたが、その祇園社と吉田がどのようにつながってくるのかをみてみたい。
京都祇園社
そこでまず、京都祇園社について見てみたい。京都祇園社は元々興福寺の末寺だったのが、10世紀末に延暦寺の末寺に変わったという話がある。その頃の延暦寺は、天台座主の座を巡って山門派と寺門派が激しく相争っており、今残されている記録では寺門派の始祖円珍以降、座主の多くが寺門派から出ていた。それに対して、966年に座主となった良源は特に後ろ盾もなかったが、その年に焼けてしまった堂塔を村上天皇と藤原師輔の支援を受けて再建し、寺内の規律を定めた「二十六ヶ条起請」を公布し、僧兵の乱暴を抑えることにも意を配るなど、延暦寺の運営を正常化しようとした。その後は尋禅という師輔の子が座主となったが、その次に寺門派の余慶が座主となり三ヶ月で辞任するなど、その辺りでまた混乱が起きているように感じられる。これは全くの個人的な感覚だが、延暦寺の悪名高い山法師というのは、実は延暦寺というよりも、寺門派の方で、それが武力を持って俗世に介入し、そして天台座主も確保することで、延暦寺自体も我が物としようとしていたのではないかと思われる。そして、その寺門派の影響下で延暦寺の末寺となったのが京都祇園社だということになるのではないか。
良源は、その後平清盛に化身したとされるようにもなり、そこでもなんとか祇園に繋げたいという意図を感じる。『平家物語』でも「(平清盛たる慈恵大師は)悪業も善根も共に功を積み、世の為人の為に自他の利益をなすと見えたり。」として評価しているというが、それ自体『平家物語』での平清盛の評価を考えると、良源を貶めるためのものではないかと考えられる。
祇園と仏教
ここで、なぜ祇園なのか、ということだが、それはおそらく仏教伝来以来の問題があるのではないかと想像している。私は北伝仏教に先立っていわゆる南伝の、上座部仏教とされるものの流れを汲むようなものが入っていたのではないか、という感覚を持っており、それはいわゆる宗教的なものというよりも、自らの心をいかに落ち着かせるかという、出家して修行をするということに主眼を置いたもので、それがのちの禅宗へとつながっていったのではないかと考えている。その出家して修行というあり方が、山岳信仰のようなものとうまく組み合わさり、それが修験道の元になっていたのではないかとも感じる。
それを考えると、それを仏教の方に引き戻そうとした空海の教えというのがある程度支持を受ける下地があったのではないか、という想像ができそう。ただ、空海という人物がどの程度事実を反映しているのか、というのは、その時期の正史である『日本後記』がかなり欠落部分が多いということもあり、その欠落を埋めるかのように空海の人物像が形成された可能性もあるのではないかと感じるので、それをそのまま信じるわけには、私は個人的にはいかないと思っている。むしろ、空海は佐伯氏の出身だということで、厳島神社への信仰、それは『平家物語』と強く結びついて広まったのではないかと感じるが、その広がりによって、空海神話も同じように広まっていったのではないかという気がする。すなわち、それは早くとも室町時代になってから、畿内や東国では江戸時代や明治維新以降の話ではないか、との感覚も持っている。
話が随分と逸れてしまったが、要するに、仏教伝来とは、そのような南伝の仏教の変種のようなものが先にあったところに、北伝仏教がそれを上書きしようと入ってきたのではないか、という疑いがあり、そうなると、どちらが正統的な仏教なのか、という正統性に関わる問題が発生する。そこでインドの仏教の聖地であるとされる祇園精舎への信仰というものを押さえる必要が出てきて、だから祇園社が必要になったのではないか。祇園という、鳩摩羅什の漢訳語が使われているということも、その北伝とのつながりを示して余りある。それは、『古事記』では描かれず、『日本書紀』にて描写された蘇我と物部という崇仏廃仏論争の実態についての議論を巻き起こさざるを得ない。
そこで菅原という蘇我氏と繋がりそうに見える氏族の氏寺である菅原寺に阿弥陀仏が本尊として祀られていることに視点がゆく。個人的には菅原とは蘇我悪なのではないかと考えており、すなわち崇仏派たる蘇我氏を悪者として描いたのが菅原氏なのではないかと想像している。本来的には蘇我氏は菅氏、そして菅は湿地に生える多様な用途を持つ植物で、要するに在来系ではないかと考えられる。そしてそれは、水田開発をするときに真っ先に利害が対立することになり、南伝系の水の中に直播するような稲作の仕方とは折り合いが悪そうにも感じられる。そういう意味で、蘇我氏が崇仏派であったというのは幾重においても考えにくい。それを崇仏派でさらにどちらかと言えば悪者として描いたことで、話の筋がかなりズレて、それ以前の話との継続性が途絶してしまったのではないかと考えられる。また、大化の改新で旧辞帝紀が焼けてしまったということでその責任も蘇我氏に振られて、多くの濡れ衣を被せられたのではないか。そんなことが、鎌倉時代の曽我兄弟の仇討ち、というような話にもつながってくるのではないかと考えられる。
いずれにしても、その話のずれを、菅原氏が阿弥陀仏に託して隠した、ということが、仏教伝来に隠された秘密ではないかと私は考えている。その集大成として、京都祇園社を末寺とした延暦寺で浄土系の教えがどんどん生まれてくる、という平安末期から鎌倉時代の宗教的大変革の時期があるのではないか。ただ、その時期に菅原氏の存在感があるかと言えばそんなことはない。そのつながりを考えるに、菅原道真の道の字が藤原道長へ、そして字が変わって頼通へと伝わり、そしてその頼通の建てた平等院に典型的に見られる阿弥陀信仰というものがその流れの起点となっているのではないだろうか。
そして、それに対抗するような形で禅宗がその存在感を強めたのも、必然だと言えそう。その意味で、禅宗の誕生からその伝播というのは、もしかしたら日本で生まれ、金を経由してモンゴルに入り、そこから直接、あるいは南宋を経由して日本に逆輸入された、という可能性もあるのではないだろうか。鎌倉新宗教の発展を含めたこの辺りの宗教事情は、そんなに簡単にまとめられるものではないので、また機会があったらゆっくりまとめたい。
吉田の名の由来
さて、ようやく話を戻して吉田の名の由来についてだが、まず、吉田神社の名が初めて出てくるのは、おそらく
に挙げられた、『定二十二社次第事』および『二十二社註式』の記述で、それらは共に吉田兼倶によるものであり、自己申告とも言えるもので、客観的な史料とは言い難い。
なお、二十二社が永例となったという記述がある『百連抄』については
こちらも系統は違いながらも吉田経房という吉田名が出てくる。なお、『吉記』は、
となっており、室町時代以降の書写が多くを占めていると見られる。
要するに、吉田神社の名が出てくる二十二社関係の文献は、吉田氏関係のお手盛りかつ後から書かれたものが多そうである、ということが言える。
藤原兼家
それはともかく、吉田名が出てきた正暦2年というのは、円融上皇が亡くなった年であり、円融上皇は天皇時代の藤原兼家との関係が色々と話題として残っている。兼家は花山天皇を無理やり退位させたなどの逸話があり、非常に悪く取られていると感じるが、実際には天皇の意を汲みながらも、自らに権力が集まらないよう苦心に苦心を重ねてきた人物ではないかと見られる。それに対して兄とされる兼通という人物の方が権力思考が強いように見受けられ、その系統によって兼家の評価が随分歪められているように感じる。いずれにしても、兼家も兼通も兼の字がつくわけで、吉田兼倶の兼はそこからきている可能性があるのではないだろうか。
その兼家と上に出てきた延暦寺の良源との関係について
となっているが、恵心院の項では
となっており、恵心院と恵心僧都の名から、後者の方がそれらしく感じられる。しかしながら、京都通百科事典によれば、
となっており、どうも前者の方が正しそうで、ここでも情報操作がなされている感じがする。
良源
なお、良源の項をみると、
とあり、横川には良源の住居である定心房があり、そこで法華経の講義をしたのだ、とある。それは、念仏三昧道場という京都通百科事典の内容とどう整理をつけるべきか。
恵心僧都源信
一方、恵心僧都源信は、良源の弟子とされるが、
と、明らかに浄土系の指向性を持っている。そこで気になるのが、村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれる、という部分。
読んで字の如く『法華経』の講説で、『称讃浄土経』を講じた結果として得られる評価としては何かずれている。まあ、『法華経』も『浄土経』も大乗経典であるということにおいては大差はないということか。
南伝から北伝への切り替えの様相
では、『大乗対倶舎抄』とはどういうことだろうか。
倶舎宗とは、説一切有部(単純に言えば上座部仏教と考えて良いのだろうか?)の考えをまとめたものといえるか。そして、法相宗の付宗として伝わったとある。
『大乗対倶舎抄』は、説一切有部と大乗の教えを比べて、大乗の方が至極であると言っているようだ。
この辺りのことが、京都祇園社が興福寺から延暦寺に本寺を切り替えたということの意味するところなのかもしれない。
吉田というのは、この南伝から北伝への切り替えの動きに、後世、おそらく室町か戦国期に、吉田神社、そして吉田神道というものを作り上げ、仏教の上に神道を被せたのだと考えられそう。
ちょっとまだ津和野までは繋げられなかったので、引き続きみてゆきたい。
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