思考、表現、意図、目的

考えが他者と共有されるまでのプロセスとして、どのようなものが考えられるか。それは、前々回書いた、解釈から認識拡張に至る間の単純モデル化であり、それは本来的には複雑なプロセスであろうから、このように単純化して整理すべきものではないのだろうが、自分の頭の中に入ってくる情報をとりあえず整理していかないとどうにもならないので、やってみるだけで、これが正しいとか、こうあるべきとかいうものでは一切ない。

二つの思考様式

感覚器により情報が知覚され、それが記憶に刻まれる。それがある程度貯まったところで、なぜそれが記憶されているのかを考える、という思考プロセスが稼働するのだと考えられる。記憶は何らかの形でセンサーに引っかかったからなされるのだといえ、だから、思考は、一つには自らの知識データベースにアクセスしてその違和感の原因を整理するというものがあり、もう一つには過去の記憶と照合してなぜ違和感となったのかを個別経験から考えるというものがありそう。

記憶照合思考は、これまでの関係性における因果によって違和感の原因を追求しようとするものであり、それは関係性についての記憶を強固なものとして、それゆえに思考パターンが因果関係に縛られ、人的な因果、あるいは運命に囚われがちな思考となるのだと言えそう。一方で一般的な知識から原因整理をすると、どちらかと言えば客観的因果関係に着目することとなり、科学的な結論に達しやすくなるのだと言えそう。そして、知識データベースが増えれば増えるほどその客観性は高まることになる。だから、知識の幅を増やして、そこから思考を巡らす方が、特定の因果よりも一般的なそれに辿り着きやすくなるのだと言える。人は歳を重ねるにつれて、次第に関係性が広がり、その関係性に沿って仕事をいかに効率的に運ぶか、と言ったことを考えざるを得なくなる。そうなると、次第に因果にとらわれるようになり、その人の頭も、そして社会的関係性も固くなりがちになる。だから、社会はなるべく関係性を流動的にし、義務的な関係性を減らすようにすることで、思考が柔軟になるのだと言えそう。それを考えたときに、契約で関係性を強く縛り付ける経済学的、あるいは法治国家的な制度というのが、果たして柔軟な思考を産むものなのか、ということは考える必要があるのではないだろうか。話が少し逸れたが、ここまでが知覚から解釈に至るまでの過程だと言える。

表現と駆け引き

思考がまとまると、次は表現ということになる。表現にはさまざまな手法があり、いかにして相手に伝えるかということによって、その手法が変わってくるのだと言えそう。対話であれば、直接的な会話や文章にしてわかりやすく明快に伝えるということが求められるのだろうが、駆け引きとなると状況は一気に複雑化する。いかに相手の裏をかき、相手に勘違いさせ、相手を誘導し、有利な立場に立つか、ということで、会話や文章も、明快というよりも回りくどく、わかりにくい、落とし穴が準備されたものとなり、そして仕草や表情、視線といったものによって相手を混乱させるということが行われることになりそう。

表現と意図

表現は何のためになされるのか、と考えると、自分の意図を相手に伝えるためであると言える。では、意図とは一体何なのか。これは、社会科学的価値をどのように考えるのか、ということによって変わってくるのだと言えそう。すでに書いているように、経済学においては、完全情報化での完全競争を想定している。そうなると、認識の拡散という意図は、完全情報の定義上捨象され、功利主義、しかも経済学的功利主義にその意図が集約されることになる。つまり、相手からいかに経済的利益を引き出すか、ということが意図であると、社会科学的に理解されることになるのだと言えそうだ。単なる功利主義ならば、対話による相互の気づきであるとか、表現の喜び、関係性の広がり、といった経済的利益以外の意図が考えられるが、功利主義が経済学的なものに限定されると、貨幣という客観的評価基準を増やす、ということが意図であるとアプリオリに設定されてしまうことになる。アマルティア・センは、これをエンタイトルメントとして、貨幣以外の権利に拡張することで多少の幅を持たせることに成功したが、それでも経済学的功利主義であることには変わりがなく、何であれ、意図が経済的権利であるということで、ゲーム理論的駆け引きになることは避けられないのだろう。センの理論がありながら、途上国開発のために現地資産の流動化といったことが一時トレンドとなったのはそういう理屈の上でのことだったのだろう。ゲームに使う資産が現地のものでなければ債務がどんどん膨らんでしまうことになり、それなら現地資産をとかしてしまえ、という、かなり乱暴なものだと言えるか。

意図と目的

こうして意図が限定されてしまうと、あとはもはや貨幣の争奪戦を行うしか無くなってしまう。本来的には、意図はその人の目的を伝えようとするものであるべきなのだが、目的を差し置いて経済的利益が意図であるに違いない、という決めつけによって、駆け引きが日常化されていってしまう。

目的は個々人の設定した多様なものであるはずが、貨幣によって客観化されることで、その目的が画一的な貨幣で評価される何かへと変わり、それによって貨幣で表現された目的に向けて皆が競争するというよくわからないことになってゆく。本来的には、個々人がそれぞれの目的についての情報を交換し、協力関係ができるようにして関係性を広げてゆくというのが、社会実装というか、考えの共有の時の在り方ではないかと感じるが、現状は経済学の影響が強すぎるためか、そのようなことにはなっていない。

認識の社会実装を妨げる駆け引き

ここで、認識拡張の過程に断絶が生じることになる。つまり、目的を共有して互いの認識を拡張する市場に当たる部分で、意図が経済的合理性の一つに集約されるために、そこで駆け引きが生じて情報伝達がうまくいかなくなるのだ。つまり、やはり認識の社会実装を妨げているのは、競争的市場におけるゲーム的駆け引きであると言えそうだ。この断絶部分をいかにうまく接続させるかによって、認識拡張、社会実装のプロセスは飛躍的にその効率を上げそうだ。

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