見出し画像

【Lonely Wikipedia】チャムドの戦い

チベットに深入りするといつまで経っても前に進まないのでサラッと終わらせたいのだが、どうしてもなかなか前には進ませてもらえない。

人民解放軍のチベット解放のきっかけとなったチャムドの戦いについて。

チャムドの戦い(中国語: 昌都之战)は、中華人民共和国が、チベットとの交渉の失敗後、事実上チベット地域で独立していたチベットに対して行った戦役。目的はチャムドにいたチベット軍を攻略し、ガンデンポタンの士気を下げ、チベットに対する中国の主権を認めさせるために北京に交渉人を送るように強力な圧力をかけることであった。戦闘の結果中国はチャムドを攻略し、その後の両者の代表者による交渉で最終的に中華人民共和国によるチベットの編入が行われた。

となっているが、そんなに簡単な話ではない。

1950年3月7日,西藏噶厦派出的代表團到達印度噶倫堡,與新成立的中央人民政府展開對話,並要求中央人民政府保證尊重西藏噶厦的「領土完整」。

3月7日にチベットガシャの代表がインドのカリンポンに行き、ガシャによる「領土の完全性」を中央人民政府が保証尊重するよう求めた。これは、1月にガシャが送ったという親善使節団がインドについたものだろうか。

対話の開始はチベット、インド、英国、中国の代表団の間で開催場所についての議論によって遅れた。チベットはシンガポールか香港での開催を支持しており、英国はインドでの開催を支持、インドと中国は北京を支持しており、また、インドと英国は対話を好まなかった。

ということで、インドと英国はあまり巻き込まれたくはないようで、腰が引けた感じを受ける。これに対応したか、4月1日にインドと中華人民共和国が国交を樹立。

一方、人民解放軍の動きは、

1950年1月,中共中央批准“向西藏多路向心进兵”计划,分四路進軍西藏。四路以康藏方向為主攻,由第十八军負責。在滇藏方向,第十四军第四十二师第一二六团于7月上旬进驻雲南贡山,後到达门工东北,配合第十八军行动。在青藏方向,由第一军组建的骑兵支队600余人,于7月24日抵达玉树地区。在新藏方向,新疆军区派独立骑兵师第一团一连135人作为进藏先遣连,8月底到达西藏阿里地区改则县西北的扎麻芒堡。
中国人民解放軍第十八军组成以第52师为主力的进军西藏先遣支队,于1950年2月12日抵达雅安。3月,解放軍抵达康定,第十八军于3月14日组成前进指挥所,由军副政委王其梅、参谋长李觉率领,统一指挥北路先遣部队(第五十二师第一五四团)、南路先遣部队(第五十三师第一五七团),由乐山分别向甘孜、巴塘进发,为主力进军做准备。到4月中旬第十八軍有至少三萬人經過康定,一萬藏人修築康定到甘孜的道路,8月修成。第十八军于7月30日集结甘孜,在甘孜以珠母宗為總部,並從康定西進理塘。青海骑兵支队于7月22日進入玉樹結古多,形成了南北夾擊昌都的態勢。 

1月に動き出した模様。4方向で、というが、カム方面以外は7月以降のようで、まずはカムの第18軍が主となって動いた様子。2月12日に成都からカンゼへのほぼ中間点の雅安に到着。3月に康定(ダルツェド)に到着。このあたり、地名が少し錯綜気味でわかりにくいが、道路を作りながら進んだと考えて良いのだろう。

1950年6月、中国人民解放軍は、カンゼの先にあるデンゴのチベット軍基地に600人の調査隊を送った。チベット人たちが殺されたが、チベット軍本体がいなかったため、さしたる抵抗も無く町は占拠された。チベット人が殺害されたとの情報に、土地の有力部族長が300人の僧を含む800人の武装勢力を持って反撃し、600人の中国人民解放軍は1人残らず殺された。ただし、解放軍にとって兵士の人命はさほど重要ではなく、占拠に際して十分な情報収集が済んでいたため、この作戦は必ずしも失敗ではなかった。
1950年6月,解放軍與藏軍在邓柯發生首次戰鬥。邓柯地处甘孜至玉树的交通要道旁,位於昌都东北部约100英里,昌都总管拉鲁·次旺多吉在该地设置了一座无线电台。解放军追蹤无线电信號來源,越過金沙江发动突袭,捣毁了电台。羅伯特·韋伯斯特·福特發現失去與鄧柯的無線電聯繫,報告拉魯。兩週後(7月)穆恰代本率800名康巴民兵(包括300名僧兵)突袭邓柯,解放軍600人陣亡。拉鲁三年任滿,8月底由阿沛·阿旺晉美接任昌都总管。

これはおそらく西洋に伝わった唯一のこの時期における実戦の情報であろう。邓柯という町は金沙江沿いにあるとはいえ、カンゼからは北の玉樹方面に抜けるところにあり、どういう戦略的意図があってここで戦いになったのかがよくわからない。大規模な無線局があったということだろうか。この戦いに前後してチベット軍の司令官が変わっているようなので、何かあったのだろうが、ちょっとわからない。

さて、いずれにしても、チャムドの戦いという以上、チャムドで何があったのかを追うべきだろう。

在昌都战役前,康區东部并未受到西藏噶厦政府的有效控制,而是在西康省的管辖下。因此解放軍在抵抗較少的情況下順利越境占领康區東部。解放軍得知了1934年邦達倉兄弟推翻拉薩政府的計畫,1950年1月寫信給邦達倉兄弟,表示願意以武器彈藥支持,換取邦達倉支持「解放西藏」。邦達倉決定不能與中共合作,而由於他們曾經企圖推翻拉薩政府,拉薩政府不信任邦達倉,警告拉薩政府也沒用。邦達倉家族經過討論,決定委託喬治·派特森前往印度報訊並尋求國際援助。6月邦達倉·饒嘎要求噶厦派出的昌都总管阿沛·阿旺晉美承認康區獨立,以換取一些康區戰士。但阿沛拒絕了。邦達倉·饒嘎和索南在昌都战役時都參與了同中方的談判。在藏军主力於昌都被殲後,邦達倉·饒嘎開始协调西藏噶厦與中央人民政府之間的談判。

チャムドにはパンダツァン家という裕福な一家がいたらしく、それが鍵を握りそう。

しっかりは読めていないのでよくわからないが、とにかく1934年にラサに対して反乱を起こし、失敗したのかな?でも、その後も四川の軍閥や長征中の共産党軍と戦っているようなので、独立勢力として確固たる地位を保っていたのではないか。

そこに1月に人民解放軍がチベット解放に協力するようお願いしたが、共産党とは一緒にはできない、と言って断ったようだ。1月には先遣隊の第18軍はまだ雅安にも到着しておらず、電報か何かでのやりとりだったか。建国されたばかりの中華人民共和国の詳しい状況がわかっているとも思えず、もしかしたら長征を行なった共産党と同じだと考えて断ったのかもしれない。それに関わったと見られるのがイギリス人宣教師のジョージ・パターソン。

ダルツェドから出発しているということで、むしろパターソンが毛沢東派の共産党の依頼を受けたか何かでチャムドを煽ろうとしたが失敗し、そしてインドまで抜けた、という可能性があるのではないか、と感じるが、それは直感に過ぎない。

そんな中で、

1950年7月10日,西康省甘孜县白利寺的格达活佛(时任西南军政委员会委员、西康省人民政府副主席、中国人民解放军康定军事管制委员会委员和西南民族事务委员会委员)自告奋勇,願赴拉萨劝说西藏噶厦同中央人民政府议和。但是当其到达昌都后即被扣留,既不能前往拉萨,也无法返回甘孜。8月22日,他在昌都突然被害身亡。

カンゼの生仏がラサへ行こうとしてチャムドで捕まり、そこで死んだという。

これだけではこの生仏がどんな人物だったのかがよくわからないので、何とも難しい。

そしてこの7月くらいから雲南、青海、心境方面からもチベットへ向けての進軍が始まったようだが、規模はそれほど大きくはなさそう。

チベット代表団は最終的に1950年9月16日にデリーで中国側大使の袁仲賢(英語版)と会った。袁は「チベットが中国の一部とみなす」「中国がチベットの国防を担当する」「中国がチベットの貿易と外交を担当する」三点の提案を伝え、受け入れれば平和的な「解放」になり、さもなくば戦争であるとした。チベットは法王とパトロンとしての中藏関係維持を考えており、9月19日に代表長のツェポン(蔵相)ワンチュク・デデン・シャカッパ(英語版)は協力を推進し、実施に幾つかの条件をつけた。特に中国軍のチベット駐留は、当時チベットには周辺国家に脅威がなく、もしインドやネパールから攻撃されれば中国に軍事的支援を求めることができたため必要ないとされており、これは大きな議論となった。

この交渉が決裂する要素はないので、ここからチャムドの戦いの間に何かがあったのだと考えられる。そこで、チベットを担当した中華人民共和国の組織を見てみたい。 

1950年1月,毛泽东致电西南局:“经营西藏应成立一个党的领导机关,叫什么名称及委员人选,请西南局拟定电告中央批准。这个领导机关应迅即确定,责成他们负责筹划一切,并定出实行计划,交西南局及中央批准。西南局对其工作则每半个月或每月检查一次。第一步是限于三个半月内完成调查情况,训练干部,整训部队,修筑道路及进军至康藏交界地区。”西南局随后向中央报告:由十八军为主担负进军西藏任务,“关于西藏的党组织,我们拟定成立西藏工作委员会,以张国华(军长)、谭冠三(政委)、王其梅(副政委)、昌柄桂(副军长)、陈明义(军参谋长)、刘振国(军政治部主任)、天宝(藏族干部、全国政协代表,时在西南局统战部工作)等人为委员,张国华任书记,谭冠三任副书记。”1950年1月24日中央批准了这一报告,还提请西北局考虑是否还有其他人可以加入西藏工委。1月27日至30日,十八军党委在四川乐山召开第一次扩大会议,宣布了中央的决定,标志西藏工委的正式成立。李觉调任十八军第二参谋长,增补为西藏工委委员;5月19日,西南局批准平措旺阶为西藏工委委员。9月24日天宝调西康工作而离开工委。

ということで、毛沢東の指示で西藏工作委員会ができ、その軍長として張国華という人物が指名されたよう。

1950年1月24日,经中共中央批准,中共西藏工委成立,张经武任第一书记,张国华任第二书记,率中国人民解放军第十八军进藏。1950年10月7日,张国华指挥打响了昌都战役,此后成功攻占昌都,迫使西藏噶厦政府派代表到北京进行谈判,达成了《十七条协议》。

ここでは張経武が第一書記で、張国華が第二書記となっている。

1949年11月19日,张经武被抽调到西南军区工作,着手进军西藏。1950年6月,毛泽东主席任命张经武为中央人民政府人民革命军事委员会人民武装部部长。9月19日,又被任命为中央军委办公厅主任。10月,中共取得昌都战役胜利,张经武参与了此战役的部署、领导工作。

とチャムドの戦いに参加したようになっているが、中央軍事委員会事務局は北京の中南海にあるもので、その任にありながらチャムドの戦いには参加できそうもない。
つまり、チャムドの戦いは、毛沢東子飼いの張国華が主導していたようだ。

戦いの様子は

10月11日最前線のカム西部の一番東側、 金沙江を渡ってすぐの芒康県を担っていた第9代本が中国解放軍に降伏した。芒康県の第9代本は、東からチャムドに向かうためには最初に通過しないといけないところで、時系列的には4日間の抵抗の末降伏し、それからチャムドに進軍して城関鎮を攻撃した、ということになりそう。10月6日から24日までの19日間、20回以上の戦闘が繰り広げられたチャムドの戦いで、中国人民解放軍は5,700人以上のチベット軍の主力を撃破したとされるが、芒康県からチャムドまでは400キロ近くはありそうで、道路がカンゼまでしか通っていなかったことを考えると、その移動だけでもそれなりの日数を計算する必要がありそう。それを考えると、ほとんど戦いらしい戦いもなくチャムドまで進んだのではないだろうか。 さらにいえば、芒康県からラサにいくのにチャムドを落とす必要もなく、本当に戦いがあったのか、ということも実は怪しい。

カムの知事であったンガプー・ンガワン・ジクメという人物がいる。

1950年10月7日、張国華(zh)を司令官とする人民解放軍(中国軍)4万人が6ヶ所から東チベット攻略を開始した(中国のチベット侵攻開始)。8500人程の武装したチベット人が抵抗するがチャムドの戦いで破れた。ジクメは武器弾薬庫の爆破を命じ、それをきっかけにチャムドは大混乱に陥った。ジクメは高官の服装を平役人の服に着替え、逃亡を図った。ある僧院で部下400名を率いる部族長に抵抗を続けるよう要望されるが、ジクメは武器を捨てて投降するよう命じた。ジクメは10月17日に降伏を認め、人民解放軍の演出で「人民解放軍を歓迎するチベット僧」や「降伏調印書に署名するジクメ」の様子が撮影された。ジクメは投獄され、中国の牢獄で思想教育を受け、地域解放委員会の副主席に昇格した。その後のジクメは「中国の目的はチベット人民への奉仕である」と主張し、ラサ政府に交渉に応じるよう呼びかけた。

チャムドの戦いとは、実は、この知事がチャムドの人々に吊し上げられ、武器庫を爆破して逃げ出し、人民解放軍に合流した、という話だったのではないか。そしてこのジクメが翌年問題の十七か条協定を結ぶことになる。

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。