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知識伝承体系の革命 − Wikipediaの威力

1ヶ月ほどnoteを続けてみて、長続きさせるためにはもう少しペースを考える必要があるな、と考えている。とは言っても、実質的に新規で書いたのは5本くらいなので、結局週一くらいのペースでしかかけていないのだが、それならそれで最初から週一くらいと想定してペースを作った方が長続きはするのだろう。

Wikipedia頼り

それはともかく、ご覧になっていただくとわかるように、私の記事はほとんどが出典Wikipedia関連ページとしてあり、要するにまともに調べもせずにWikipediaをチラチラみては、なんとなくまとまっているんだかいないんだかわからないような記事を書いているということになる。これは確かに私の横着ではあるのだが、多少の自己正当化をすれば、これはITの時代、まあ今ならばDXと言った方が良いのだろうが、そんな時代になって、知識伝承体系に大変革が起きている、その一段面に私が乗っかっている、ということなのだろう、と勝手に解釈している。

知のタコツボ化

かつて知は、たとえば日本の様々な”道”にそれぞれ流派があるように、師匠がいて、それに従って知識を得てゆくことで、次第に階層が上がり、最終的に免許皆伝となって一人前とみなされる、というような、厳格な構造の中で伝達されてきた。それは、今の学校教育においても、学閥というものが存在するように、いまだに根強いものがある。そしてそれは、自然を相手に研究しているはずの自然科学でさえも、研究室単位での研究が主となっており、そしてそれは、その研究室単位での予算獲得や就職の世話と言った、まさに現世利益と直接に結びつくことで、研究室が研究の飯の種を抱え込み、そこで独占的に知の研究、伝承がなされるという、非常に閉鎖的な慣習となって、それによって知のタコツボ化のようなことが起こっていた。

前提変更のリスク

その中においては、師匠の見解が基本的には絶対であり、そこからはみ出すような考えをすれば締め出されるかもしれず、そこまでいかなくても、素直に話を聞いていれば、その枠組みでしか考えることができなくなってしまう。そして、学問が科学的になればなるほど、前提が変われば全てが変わってしまうことになるので、前提を変えるということは大きなリスクとなり、そのために知の体系は方向転換が利きにくくなってしまっていると言えるのかもしれない。

政治工学の世界

実はこれは、昨日書いた政治工学的な話にも通じるものであり、政治が科学的に動くというのは、政治家がある前提を呑んだら、その前提の元に様々な人間関係を構築してゆくので、後からその前提を動かす、ということは至難の業となる。だから、それこそ原発のように、一旦動き出したら止められない、ということになり、一方でそれを止めるためにはさらに無理な前提で強行突破することになる。それはさらにひどい前提が社会全体の前提になることを意味し、政治闘争が行われれば行われるほど嘘に嘘が上塗りされるという、全くひどいあり方が、政治工学のもたらす世界なのである。

無名性の”情報”

少し話がずれてしまったが、要するに、知の伝承にしろなんにしろ、伝承はある程度閉鎖的な集団でなされてきたということがあり、そういうことを考えると、果たして普遍的な知というのは存在しうるのか、という非常に難しいテーマに突き当たってしまう。そこで、現代になって現れてきた概念が、”情報”、というものなのだと言えそうだ。情報は、あくまでも私の感覚だが、知に比べて匿名性が高いイメージがある。匿名性というよりも、当局による公式発表といった、従来の人間関係に従った流れではない、という意味での匿名性ということで、どちらかというと無名性とでも表現すべきものかもしれない。もちろん、出どころを明らかにして誰々からの情報、という使い方は一般的ではあるが、それは、従来の人間関係からは出てくるはずもない話が出てきたときに、その情報の当局的役割として出どころが明らかにされる、ということで、無名化のためのソース提示と言えるのかもしれない。このように、そもそも無名性を特徴とするのが情報であるので、その意味でソース提示というのは、中継者が自分がソースとなることを防ぐためにつけられるヘッダーのようなものであり、その意識が希薄になるとそのソースも消えて、単に無名性の”情報”だけが拡散することになる。

フェイクニュース

それが一般化したのが、いわゆるフェイクニュースであると言える。もっとも、フェイクニュースが常に無名かと言われるとそんなこともなく、トランプ元大統領のように、実名で一般的にはフェイクニュースと捉えられる情報を拡散する人物もいる。それは、フェイクとは一体何か、という問題であり、本人がフェイクだと認識、解釈していないものをフェイクニュースであると批判すること自体が無意味であるとも言えるかもしれない。

指針なき”情報”

また少し脇道に逸れたが、要するに、情報は無名性を特徴としており、それは、師匠がそうだと言っているから、という、伝統的な知の世界とは全く異なった伝達のあり方なのだと言えそうなのだ。その点で、情報は、誰でもアクセス可能な一方で、その指針が見当たらなくなる、という、従来的に考えれば、非常に難しい局面をもたらしたと言える。

Wikipediaの衝撃

そこで私が注目したいのがWikipediaである。Wikipediaは、オープンデータのプロジェクトで、原理的には誰でも編集可能な、万人の知恵によるインターネット上の百科事典である。つまり、世間で一般的に受け入れられている解釈がそこにまとめられている可能性が非常に高いものであると言える。そして、その文中に出てくる様々な用語は、それぞれを説明した別のページに飛ぶことができる、ということで、わからない言葉はその都度クリックひとつで確認できるという、紙の百科事典では実現不可能であった非常に便利な機能が実装された。これによって、あるページに書かれた内容が、その用語を確認してゆくと、他のページで書かれていることと全然違うことになる、ということが確認できるようになり、タコツボ化された知識が相対化され、検証可能になったという、これこそが知の革命の原動力とも言える、非常に大きな変化が起こったのだ。つまり、専門家が難しい言葉で誤魔化そうとしていたことが、それ全然違うじゃん、というのがクリックひとつでバレてしまうことになったのだ。そこまで極端ではなくても、弟子にとっては師匠の言うことはある種の絶対性を帯びているわけであり、それを盲信しがちであるが、それを、ちょっと気になったら軽くWikipediaで調べてみる、と言うことで、違和感の原因が特定しやすくなったと言う、それだけでも非常に大きな変化が訪れたと言えるのだ。

納得の喜び

さらに、これによって、自分の専門分野とはかけ離れたことであっても、とりあえずWikipediaでみてみて、リンクを追ったりしながら、少しずつ理解しようとする、と言うことが可能になり、そこである程度わかれば、そこから専門書に手を伸ばせば、全くの初めてで読むよりも、はるかに理解のハードルは下がる。そしてそれは、非常に簡易的にわかった、の喜びを与えてくれる魔法のページのような感があり、象牙の塔でのスパルタ的な知の叩き込みよりも、はるかに自発的に知識を深めようと言う動機付けを伴う可能性がある。もちろんそんなお手軽なもので何がわかるか、と言う批判はあろうが、お手軽だろうがなんだろうが、自分がわかった、と納得することがとりあえずは一番大事なのではないかと私は考える。

Wikipediaを通じての議論

その上で、お手軽批判に対しては、お手軽に批判をさせてはもらえない既存の知の体系に対して、Wikipediaに対して何を批判しようが、取り立てて誰が傷つくわけでもなく、だから、既存の知の、特に基本的な前提が大きく歪んでいるときには、Wikipediaを相手に吠える、と言うのは、非常に平和的かつ割と効果的なやり方ではないか、と考えるのだ。それは、自分自身にとっても、そして批判の対象となった具体的な考えに対しても、直接批判とはならないようなバッファーを準備することになる。そして、仮にWikipediaの無理な編集によって誤魔化そうとしても、先にも書いた通り、他の項目との相対性を確認すれば、おかしなことはすぐに炙り出されてくるわけであり、ごまかしが効きにくいと言うのが、Wikipediaの何より優れた特質であると言える。特定のページが独立王国のように勝手なことを書いていても、外からおかしいよね、と言って相対化すると言うことも可能であり、情報操作自体非常にしにくいものなのだ。

Wikipediaから見える自分の価値観

そして、そのWikipediaをみてのおかしさ感で、自分の価値基準のありかを図ることができる、と言うこともある。ページごとの相対性で、自分が一体どこをおかしいと感じるのか、と言うことを特定してゆく、と言うのは、自分という人間がどういう価値観を持っているのか、というのを確かめるのに非常に有意義であると考えるのだ。

まとめ

そんなことで、私は、Wikipediaが知識伝承体系に革命を起こす非常に大きなツールなのではないかと評価している。と、グダグダ書いてきたが、要するに、Wikipediaを使ってお手軽(?)に記事を書いている自己正当化を行なっているわけで、そして世の中にはまだまだ納得しなければならないどうでも良いことが山ほどあるので、多分まだしばらくはWikipediaを使った記事作りというのはやめられそうもない。
ただ、楽しいからと言ってそればかりをやっているわけにはいかないので、ある程度メリハリをつけて、日々は、Wikipediaのどの項目に引っかかっているかのメモを公開する程度にして、週一くらいでまとめて公開、というぐらいのペースにしたいと考えている。

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