【Lonely Wikipedia】毛沢東
過大評価が著しいのではないかと、私が感じている毛沢東。
生い立ち
1893年12月26日(光緒19年11月19日)に清の湖南省湘潭県韶山沖(毛沢東故居参照)にて、父の毛貽昌・母の文素勤の5人兄弟の三男として誕生する。ただし長男と次男は夭逝したため、事実上の長男扱いであった。毛沢東はその才覚で地主まで成り上がった厳格な父によって、子供のうちから労働に従事させられつつ勉学にも励んだ。1907年に4歳年上の羅一秀(中国語版)と最初の結婚をするも、1910年に妻は赤痢のため、わずか20歳で死去した。
とある。毛氏というのは歴史を遡るといろいろ出てくるのだが、それは
から追える範囲を超えてしまうので、そこまではここでは触れないこととする。
実際に毛沢東が歴史の表舞台に出てくるのは
中国共産党と中国国民党への参加
1921年7月23日、毛沢東は第1回中国共産党全国代表大会(党大会)に出席する。1923年6月、第3回党大会で中央執行委員会(現在の中央委員会)の委員5人のうちの1人に選ばれた。この第3回党大会では、コミンテルンの指導の下、「国共合作」の方針が決議された。9月、毛は、共産党中央執行委員会の指示と国民党の委託を受けて長沙に赴き、国民党の湖南支部を組織した。
だろうがここの怪しさは既に述べたとおり。
ここで、1921年に他に何があったかというのを見てみたい。
より
1921年5月、広東軍政府は改組されて「中華民国政府」と称し、孫文は中華民国非常大総統に就任した。このとき孫文は非常国会で北伐案が認められたことに興奮し、これを電報で上海にいた胡漢民や蔣介石に伝えた。胡漢民は上海から広東に向かったが、蔣介石は動かなかった。
6月14日、敬愛する母・王采玉が病没。苦労して自分を育ててくれた母に報いるために、蔣介石は渓口鎮での葬儀を盛大に行い、母を記念して生地に武嶺小学校を建設した。蔣介石は母を追悼する一文を遺しており、それには「哀れは母を喪うよりも哀れなるはない」とある。孫文からは王采玉を弔うとともに、すぐに広東に戻ってきてほしいとの書簡が送られてきた。また、胡漢民や汪兆銘など孫文閥の広東政府の要人からも手紙や電報で催促された。仕方なく蔣介石は広東に出向いてみたものの、広東政府内部の対立や陸軍部長兼内務部長に就任していた陳炯明の態度に怒りを覚え、ごく短期間で上海や渓口鎮に戻り、母の供養と称してそこから動くことは少なくなっていった。11月23日には母の本葬が執り行われ、その墓碑銘には孫文が揮毫し、胡漢民や汪兆銘も碑文を記した。
より
1921年、蔣経国の身辺に二つの大きな出来事が起こった。まず蔣経国の祖母で、蔣介石の母である王采玉が死去した。母の葬儀の後で蔣介石は「経児(蔣経国)は教えるべき、緯児(蔣緯国)は愛すべき」と訓示し、蔣経国を蔣家の後継者として育成していく方針を示した。そして蔣介石は母の存命中は、表面的には夫婦関係を維持してきた妻であり蔣経国の母である毛福梅と離婚し、同時に第二夫人の姚治誠とも別れ、上海で陳潔如と婚姻する。同年、蔣経国は奉化県の龍津小学校に入学し、放課後も家庭教師の王欧声から教育を受けるようになったが、翌年、蔣経国は故郷を離れ、人生の転機の一つとなる上海行きが決まった。
蔣経国の上海行きは、閉鎖的な田舎では息子の見聞が広まらないと考えた父・蔣介石の意向であった。もっとも先述のように蔣介石は経国の母・毛福梅と離婚したため、息子を離別した妻の下から離す目的もあったと考えられる。蔣経国自身もこれまで故郷、渓口鎮で旧態依然とした教育を受けてきたが、伯父たちの噂話で知った上海の新式の学校での教育を望むようになっていた。
まず、この年は、「中華民国政府」ができ、孫文が中華民国非常大総統に就任した年であると言うこと。そして、それとは別行動をとっていた蔣介石が、最初の妻であり蔣経国の母である毛福梅と離婚した年であるということである。つまり、中国共産党の設立とは、孫文の中華民国設立にあわせ、蔣介石の最初の妻である毛氏と姓が同じ毛沢東の名に箔を付けるために、おそらく後になってから作られた話であろう、という事が考えられる。
では、その時期は一体いつかということで再び毛沢東のページから追ってみると、まず、毛は1923年いわゆる国共合作の年に 第1回中国国民党全国代表大会に出席しており、国共合作とは、毛沢東の国民党加入の年であったと考えられる。
第一次国共内戦
毛沢東は国共合作において重要な役割を果たしていたが、1927年4月12日の上海クーデターで国共合作は崩壊した。その直後の4月27日から5月10日にかけて開催された第5回党大会で毛は中央委員会候補委員に選出された。
この上海クーデターとは、共産党系の左派による国民党乗っ取りと、それに対する蔣介石の反撃であると考えることができ、これによって始めて国民党と共産党が分かれたと考えられそう。
それに先だって1925年に孫文が亡くなり、その年の秋にモスクワのソ連共産党トロツキー派が、孫文の名声を用いて中国を取り込もうとした モスクワ中山大学が設立され、 学長にはトロツキー派の主要メンバーであったカール・ラデックが選ばれ、Wikipediaではスターリン派とされるが、どうもそうではなさそうなパーベル・ミフが副学長となった。ラデックは27年にスターリンによって追放され、37年に死刑となるミフは、中国共産党とも深く関わったが、後に走資派として否定されることとなる李立三の路線を否定して国際コースを進めたが、結局中国共産党からもその影響が排除されているという。つまり、ミフは世界同時革命論者で、李立三がスターリン系であった可能性が高く、だからモスクワ中山大学はトロツキー派の拠点であったとみるべきだろう。なお、李立三は、フランスにいる時に中国共産党の創立メンバーとなっており、つまり第一回の共産党大会は、もしかしたらフランスで開かれたのかもしれない。それはともかく、そのモスクワ中山大学に国民党からも蔣経国をはじめとして幹部子弟が多く留学することになったのだ。蔣経国はそこへの留学を希望し、蔣介石は国民党への入党を条件としてそれを認めた。しかし、まさにその蔣経国の身柄を巡って、この大学がソ連共産党内の内紛の舞台となってゆく。ラデックが学長を解任されたのは上海クーデター直後の5月であり、クーデターを主導したミハイル・ボロディンとのつながり、そしてボロディンを用いた中国国民党への共産党浸透を画策していた疑いが強い。
上海クーデターに対して、蔣経国は
彼(蔣介石)の革命事業はすでに終わりました。革命の観点からすれば死刑に値します。革命にそむいたその瞬間から、彼は中国プロレタリアート階級の敵に成り下がりました。過去において彼は私の父であり、革命のよき友人でありましたが、反革命の陣営に走った以上、今よりのちは私の敵となったのです。
と、父・蔣介石に対する絶縁状をたたきつけた。この蔣経国の声明文はタス通信を通じて全世界に配信されたとされるが、どうもタス通信自体、 妻がトロツキストとして強制収容所に送られたミハイル・カリーニンが議長を務めていたソビエト連邦中央執行委員会によって設立され、のちにボロディンが副局長を務めるように、トロツキー派の牙城になっていたようで、その内容は信用に値しない。
そして蔣経国は大学卒業後も帰国することが出来ず、
スターリン自身がモスクワ中山大学を訪れ、学生たちにトロツキー派の「誤謬」を正す一幕もあった。このような中、中国共産党モスクワ支部はトロツキー派を反動と決め付けた。1927年12月にはラデックがソ連共産党第15回大会で除名され、シベリア送りとなった。この直後蔣経国はこれまでのトロツキー派から離脱している。
というが、元々蔣経国は見せかけでラデックに従っていたということがありそう。タス通信の配信でそれに嫌気がさし、スターリンに助けを求めたのではないか。
このあたり、寄り道をしていると切りがないので、少し飛ばして、毛沢東に戻ると、
井崗山を最初の革命根拠地として選んだ毛沢東は、1929年から1931年にかけて、湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に農村根拠地を拡大し、地主・富農の土地・財産を没収して貧しい農民に分配するという「土地革命」を実施していった。毛沢東は江西省瑞金に建設された中央革命根拠地である「江西ソビエト」に移り、1931年11月、瑞金を首都とする「中華ソビエト共和国臨時中央政府」の樹立を宣言してその主席となった。
一方この時、
中国共産党モスクワ支部はあくまで蔣経国をモスクワから追放することにこだわり続け、結局1931年11月、モスクワ郊外の貧しいシコフ村に送られることになる。
と、蔣経国が追放されている。
ちなみに、これに先だって9月には柳条溝事件によって満州事変が始まっている。ここからはさっと終えるような話ではなくなってくるので、戦後まで一気に飛びたい。
第二次国共内戦
日中戦争末期の1945年5月、中国国民党は第6回全国代表大会を開催し、孫文が提唱した革命の第3段階である「憲政」に入ることを示した。そして、「憲政」が国民党主導の国民大会によって実施されるという構想を明らかにした。一方、毛沢東は同時期に開催されていた中国共産党第7回党大会で『連合政府論』を提唱し、国民党案に不同意を表明した。日中戦争当時、共産党と国民党は表面上協調関係を結び、毛沢東も蔣介石の権威に従っていたが、戦争終結を目前にして、毛沢東は「蔣介石と対等な指導者」としての立場をめざし、共産党と国民党の対立は深刻化していった。また、毛は第7回党大会で「たとえ、我々がすべての根拠地を喪失したとしても、東北(満洲)さえあれば、それをもって中国革命の基礎を築くことができるのだ」と述べた。終戦直前の8月13日、毛沢東は蔣介石との武力闘争を内部指示として発した。
つまり、毛沢東は満州を拠点にして国民党と対決する、という事を明言しているわけであり、それは様々なことを含意することになるが、ここでは深入りしない。
1945年8月14日、日本はポツダム宣言受諾を連合国側に通告、8月15日に終戦を迎えた(日本の降伏)。8月30日、蔣介石と毛沢東は重慶で会談し、国共和平・統一について議論を重ねた。議論は長引き、10月10日に「双十協定」としてまとめられた。「双十協定」では、国民党が「政治の民主化」「各党派間の平等性や合法性」などを約し、共産党も「蔣介石の指導」「国民党の指導下での統一国家の建設」を承認するなど、内戦回避と統一政権樹立について両党が努力することが確認された。さらに国民党の張群、共産党の周恩来、アメリカのジョージ・マーシャル将軍は三者会談を行い、停戦協定を発表して軍事調処執行部(中国語版)(三人委員会)も成立した。
しかし、「双十協定」が調印されたその日、山西省南部で上党戦役が勃発し、共産党軍と国民党軍が交戦、共産党軍が国民党軍に大きな打撃を加えた。また、この年末には、降伏した日本軍の接収・管理のために国民党軍が東北地方に派遣されると、共産党も林彪率いる東北民主連合軍を派遣し、緊張関係が生じた。
1946年1月、「双十協定」に基づき、政治協商会議(党派間の協議機関)が重慶で開催された。各党派の代表構成は、国民党が8、共産党が7、その他の政党・無党派が23であった。この会議では憲法改正案・政府組織案・国民大会案・平和建国綱領などが採択され、国民政府委員会(政府最高機関)の委員の半数が国民党以外に割りあてられるなど、国民党は共産党を初めとする諸党派に対して一定の譲歩を示した。しかし、3月の党大会において、国民党は共産党が提唱する「民主連合政府」の拒否と国民党の指導権の強化を決議した。6月26日、蔣介石は国民革命軍(中華民国の正規軍。実質的には国民党軍)に対して共産党支配地区への全面侵攻を命令、国共内戦が始まった。中国共産党はこれに対して6月22日に「アメリカの蔣介石に対する軍事援助に反対する声明」を提出し、アメリカの援助はいまや明らかに中国内政への武装干渉であり、中国を引き続き内戦・分裂・混乱・恐怖・貧困に陥れていると指摘し、アメリカに対して「一切の軍事援助の即時停止、中国におけるアメリカ軍の即時撤退」を要求した。マーシャル将軍は、中国への武器弾薬の輸出禁止措置をとった。8月10日にはトルーマンが蔣介石にその行動を非難し、同年12月18日にトルーマンは「対中政策」を発表し、アメリカは「中国の内戦に巻き込まれることを避けつつ、中国国民が中国に平和と経済復興をもたらすのを援助する」だけであるとしてマーシャル将軍の召喚と中国内戦からのアメリカの撤退を表明する。
国共内戦が起きると、毛沢東は、地主の土地を没収し農民に分配する「土地革命」を再開し、農民の支持を獲得していった。
国共内戦では「全面侵攻」を進める蔣介石に対して毛沢東はゲリラ戦を展開した。1947年3月28日、毛は党中央の所在地である延安の放棄を決定、国民党軍を山岳地帯に誘い込み、国民党の戦力消耗を図った。内戦当初優勢だった国民党軍はこの頃より勢いに陰りを見せ始めた。毛沢東率いる中国人民解放軍(1947年9月、八路軍から改称)はソビエト連邦からの軍事援助を受けつつ、アメリカ政府内の共産主義シンパの抵抗によって軍事支援を削減された国民党軍に対して大規模な反撃に出た。1948年9月から1949年1月にかけて展開された「三大戦役」において人民解放軍は勝利を重ね、国民党軍に大打撃を与えた。1949年1月、人民解放軍は北平(北京)に入城し、4月23日には国民政府の根拠地・首都南京を制圧した。
毛沢東は1949年3月の第7期2中全会において、新政治協商会議の開催と民主連合政府の樹立を各界によびかけた。かくして、9月21日から9月30日にかけて北京に全国の著名な有識者や諸党派の代表が集まり、中国人民政治協商会議が開催された。この会議では新国家の臨時憲法となる「中国人民政治協商会議共同綱領」が採択され、新国家の国号を「中華人民共和国」とし、毛沢東が中央人民政府主席に就任することが決議された。また、北平を北京に再び改称し、国民政府の象徴である南京から遷都することも決定した。
中華人民共和国 建国
1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門壇上に立ち、中華人民共和国の建国を宣言した。しかし、この段階では国共内戦は終息しておらず、11月30日に重慶を陥落させて蔣介石率いる国民党政府を台湾島に追いやったものの、1950年6月まで小規模な戦いが継続した。
非常に駆け足なのだが、構図としては、旧満州に共産党系が構え、それ以外を国民党が押さえていた、ということで、蔣介石としては、最悪旧満州国に共産主義者を封じ込めて分離させても致し方なし、と考えていたかも知れず、また、実際毛沢東もそれに近い考えを持っていたのではないかと思われる。そうして「双十協定」が締結されたが、それに対して共産党トロツキスト過激派が、中国本土内の山西省で上党戦役を引き起こす。国民党は12月に東北を接収するために旧満州進出、そこに、20日にアメリカから特使としてジョージ・マーシャルがやってきて、明けて1月に停戦協定を結ばせ、3人委員会を設立した。この中で、周恩来は共産党代表とされるが、共産党というよりも、非国民党勢力の代表という感じで、しかも東北を除いた形での議論だったのではないかと考えられる。国民党は、旧満州の内内蒙古に当たる部分への国民党進出を求めたが、これが却下されたのだ。内蒙古を国民党が押さえなければ、ソ連側から東北に入り放題になるということで、これは非常に重要な部分であったが、共産党過激派の代表が出ていない以上、おそらくマーシャルが押し切ったのではないかと考えられる。そしてこれによって、東北部では土地の開放が始まったのではないかと考えられる。東北部で緊張が高まる中、6月5日に、今度は東北部での停戦が定められた。蔣介石がこれを受け入れたことで、形勢が一気に共産党有利に動き出した。15日の停戦期間が過ぎた22日に、共産党がソ連から支援を受けている中、毛沢東がアメリカに対して国民党への援助をしないよう求めたのだ。それに対して国民党は反発し、26日に蔣介石は総攻撃を命じる。これに対して、マーシャルが7月29日から武器禁輸を行った。アメリカの後ろ盾を失った国民党は、それ以来敗北を重ねることになった。
結局、49年に中華人民共和国が成立し、中国は統一され、そして全国に共産党がばらまかれることになった。
次は中華人民共和国の成立からニクソンショックまでの中国サイドの流れを追ってみたい。