【中国共産党100年の秘密】 その起源はどこに

今年は中国共産党結党100年だということで、7月1日に記念式典が開かれたようだ。仮に結党100年という言い分を認めるにしても、第一回の全国代表大会は23日から始まったということになっているので、三週間はサバを読んでいることになる。これは、香港返還の7月1日に合わせたものだと考えられるが、結党100年という記念の年の日付をずらさないといけないほど共産党政権が追い詰められているというのは注目すべきなのだろう。来年は香港返還25周年となるわけで、中途半端な今年にその重要なカードを切ってしまったことが吉と出るか凶と出るか。三週間のサバ読みをしているということは、共産党はそれ以前からあったのだ、という話を作ろうとしているのかもしれない。それは、一つには第一回全国代表大会の怪しさが要因としてあるわけで、それについては


さて、では、その共産党的なものの起源はどこにあったのか。大雑把に日中間の歴史の流れを振り返ることから、その起源を探ってみたい。

1894年に東学党の乱をきっかけとして日清戦争が勃発し、翌年に講和条約が結ばれ、朝鮮の独立、台湾、澎湖諸島、そして遼東半島の割譲となった。遼東半島については、その後三国干渉があり、清に返還された。敗れた清では皇帝が求心力を失い、1900年には義和団の乱が発生し、山東半島から発生したこの反乱において、袁世凱が頭角を表す。この乱においては、西太后が義和団側に立って列強に宣戦布告を行なっている。この背景には、義和団がキリスト教の布教に対する反発から起きているということがあり、そして日清戦争後の権益を確保したい日本はいずれにしても出兵するであろうという西洋諸国の読みもあった。そこで、とくに山東半島はドイツ帝国の権益が大きなところであり、三国干渉の経緯からもドイツ帝国が何かを仕掛けた可能性は否定できない。

そもそも三国干渉後に真っ先に清の領土に手をつけたのは、宣教師の殺害を理由に1897年に山東半島の膠州湾を占領し翌98年3月6日に租借したドイツであり、それがきっかけとなってロシアが三国干渉で日本から取り上げた遼東半島を3月27日に租借するという、日本に対してはもちろん、清に対しても侮辱以外の何者でもない行動に出たのだ。その背景があった上で、山東半島でキリスト教宣教が行われ、それに対して義和団の乱が起き、清が義和団側に立っての宣戦布告という流れになる。そしてロシアがそれに対して大軍を派兵し、ボーア戦争で手を離せないイギリスの依頼を受けて日本もそれを上回る軍隊を派遣する。張本人たるドイツは高みの見物で、清と日本との間に楔を打ちつけた。その上で、結果として結ばれた1901年の北京議定書では、殺害されたドイツ公使の弔問として皇弟が指名され、さらにドイツ公使に対する記念碑の建設が義務付けられた。モニュメントは長く記憶に残るものとして使われがちなものである。最小限の兵力と犠牲で最大限の効果を得たのがドイツであったと言える。

そしてその楔が間接的にはきっかけとなって1904年には日露戦争が起きる。義和団の乱の後、日本に次ぐ大軍を出兵したロシアはその後撤兵することなく満州に居座り、清の内政を圧迫していた。満州は清王朝の故地とも言える場所であり、そこに他国軍が居座るということがどれほど清王朝の権威を貶めたことか。実際満州には漢人を入れないという封禁政策がとられており、そのためにロシア軍の居座りを許したということもある。日露戦争に立ち入ると深みにハマってしまうので、ここまでにしておく。


義和団の乱の後、西太后を中心として光緒新政が行われた。これは、義和団の乱の前に起こった戊戌の変法で求められたことの具現化であると言え、政治の近代化を目指したものであった。これは、1908年の光緒帝と西太后の死によって挫折し、その3年後には辛亥革命が起き、清朝は終焉を迎え、孫文による中華民国が成立する。そして孫文は皇帝の退位を条件に袁世凱を大統領として推薦し、袁世凱が臨時大統領となった。

袁世凱は東学党の乱で朝鮮に派遣され、そこで朝鮮の混乱に乗じて勢力を拡大することで日清戦争の原因を作り出し、日清戦争では上司の李鴻章を犠牲にすることで自らが北洋軍閥の長となり、義和団の乱でも山東省の反乱軍を鎮圧したことで反乱軍が直隷になだれ込み、結局列強が北京に進出する理由を作った人物である。つまり、清朝末期からの東アジアの混乱の中心に常に座っていた張本人が袁世凱なのである。本来は一つ一つもっと細かく見ていくべきなのだが、ここは大雑把な流れということでこの程度にしておく。

袁世凱が臨時大統領となった翌年に第一次世界大戦が勃発し、日本とドイツが山東半島をめぐって争い、日本がその占領地の処理について二十一箇条の要求を出したとされる。これも、それだけ取り上げれば随分高圧的な要求だと見えるかもしれないが、実際にはそんなに簡単な話ではなかった。まず、第一次世界大戦が始まる少し前にシーメンス事件というものが発覚した。これは、従来イギリスとの関係が深かった帝国海軍に、ドイツの会社であるシーメンスが入り込もうとして、横浜支社長を経由して機密情報を入手し、海軍調達品入札で契約を勝ち取るということがあったようで、そしてそれに伴ってシーメンスから海軍将校に賄賂が贈られたともいう。この辺りは国内の政治情勢も絡んでどこまでが事実なのだかわからないが、とにかく斎藤実海軍大臣は騒ぎを大きくしないように処理しようとしたのだが、それが機密情報を入手したシーメンス社員がドイツに帰国した途端に逮捕され、賄賂を受け取った将校の実名を含めた調査報告が公表されたのだ。それによって、日本の国会でも騒ぎとなり政局となっていった。

そんな前段があった上で、8月に第一次世界大戦が始まり、最初は中立を宣言した日本に対して、英国から正式に参戦依頼が来たということで、ドイツに対して中国国内の租借地を全部中華民国に返還するために日本に譲渡するように、という内容の最後通牒を出した上で、それが無視されたので宣戦布告をして戦闘状態に入った。大戦では山東省のドイツ租借地を占領し、戦時国際法に基づいて講和条約の締結までは日本軍が占領するということになった。大戦終了の目処が立たないということで、先にこの問題を処理してしまおうとして出てきたのが二十一箇条要求ということになる。

この中で、山東半島に関わる第一号については、一番抵抗の大きかったアメリカでも抗議する意図はなかったとされる。日本側が重視していたのは、第二号の大連、旅順の租借権と満鉄・安奉線の租借期限の延長であり、大きな問題となる第五号の要望項目については最初から通ることはあまり考えていなかったようだ。それならば、そんな項目をつけなければ良かったと言われれば、確かにその通りなのだが、外務大臣の加藤高明やそしてもっと信頼性の高い孫文の証言によると、どうも袁世凱が国内の不満を逸らせるために日本側に要求を釣り上げるよう密かに求めたようなのだ。そんなことに乗ってしまったのは確かに不味かったのだろう。袁はその恩を仇で返すかのように、二十一箇条要求を受諾した翌日に懲弁国賊条例をだし、それが結果として満州事変につながる重大な帰結をもたらすことになるのだが、それはまた後の話となる。

いずれにしても、二十一箇条要求は受諾されたのだが、その後大戦の終わりを見ずに袁はこの世を去る。袁の没後には軍閥が割拠するような状態になり、日本は段祺瑞に肩入れして西原借款の供与を行い、日支共同防敵軍事協定を締結して、中国本土にかなり深入りするようになっていた。

1919年になってようやく大戦が終結し、パリ講和会議を経てヴェルサイユ条約の締結となるわけだが、この会議でアメリカが中国に肩入れしたことで、ドイツから直接中国への租借地及び権益の返還が議題となった。第一次世界大戦以来血を流してきた日本としては、今更そのような状態に戻れるはずもなく、日本への譲渡の上での返還を主張せざるを得ず、結局条約ではドイツから中国への権益の直接返還は認められず、それは中独間の直接交渉によるものとされた。

しかしながら、これによってアメリカとの間に大きな溝ができ、第二次世界大戦への大きな一歩が踏み出されたことになる。一方で中独間で直接条約が締結されたことで、旧ドイツ租借地についての解釈が分かれることになり、これがまた問題を複雑にする要因となった。また、ドイツはこれによって中国との関係を深め、軍事顧問を送り込むような関係となる。山東半島を奪われたと考えていただろうドイツが中国に軍事顧問を送るようになった、ということも、その後の日中対立のベースラインとなったと言える。これらのことは非常に不幸なボタンの賭け違いだと言わざるを得ない。


そして、この問題が国際的に大きくクローズアップされることで、中国の特に若者が沸騰し、五・四運動が発生する。これらの不満が共産党支持層のベースとなってゆくことになるのだが、共産党の考え方自体が浸透しだすのはもっと後の話であり、その意味で、ロシアで革命を成し遂げたばかりの共産主義がこの時点で中国に広く浸透していたかというと、それは疑問が残る。

もっとも共産主義とはいったいなんなのか、という定義の問題でもあり、マルクス的な革命が共産主義の本質ならば、それは辛亥革命によってすでに起こっていると言え、そして、清朝の行なっていた土地課税以上に共産主義的な制度というのは現実的には考えにくいのでは、ということもあって、そこで共産主義という言葉が一人歩きしたこと自体が中国の長く続く混乱をもたらしたと言えるのかもしれない。本当はもっと様々な要因があるのだが、長くなるとわかりにくいので、とりあえずは日中の直接的な関係性から導き出される共産党のルーツはここまでにしておきたい。


*これは、Wikipediaなどのインターネット情報を中心にまとめた草稿のようなもので、具体的文献にはほとんどあたっておりません。内容については各自ご確認をお願いいたします。そして間違い等ございましたら、ぜひご教授ください。

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