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記憶の狭間を埋める旅(10)

不平等条約の改正

明治前半の海外との交流はお雇い外国人によってみてきたが、そこから大正時代に繋げるのには、日清日露の大きな戦争を二つ見なければならない。しかしながら、ここでそれを見るのは大きく主題から外れてしまうので、今回はそこは飛ばすことにして、大正時代に入る直前、対外的には明治天皇の最期の大仕事のようになった条約改正についてみてから大正時代を見ることにしたい。

改税約書

まず、私は個人的には幕末の日米和親条約や安政の五カ国条約というものが本当にあったのか、ということを疑っている立場である。とは言っても、維新後に何の条約もなかったとは考えにくく、おそらく改税約書のみが有効で、それによって貿易関係はできるようになっていたという状態だったのではないかと考えている。

改税約書(かいぜいやくしょ)とは、安政五カ国条約付属貿易章程の改訂協約である。江戸協約とも呼ばれる。
改税約書は、安政五カ国条約所定の開港期限を間近に控えて兵庫港沖に集結した欧米列強の要望および列強艦隊の威圧を受け、1866年6月25日(慶応2年5月13日)、江戸幕府の老中水野忠精とイギリス、アメリカ、フランス、オランダの4カ国代表との間で調印された。駐日イギリス公使パークスを中心とする列強側は、財政難の江戸幕府が支払いに困窮している下関戦争賠償金総額の3分の2を減免することを条件に条約の勅許、兵庫早期開港、関税率低減を要求した。
これにより、輸入品価格の35%ないし5%をかける従価税方式であった関税が、4年間の物価平均で定まる原価の一律5%を基準とする従量税方式に改められた。これにより、ただでさえ日本国内での物価が日本国側の関税自主権放棄のため高騰していたところへ、更に異国の安価な商品が大量に流入することとなり、貿易収支を更に不均衡にしたのみならず、日本における産業資本の発達を更に著しく阻害した。また、高価格の異国商品の輸入については一転して有利となったため、異国からの高価格商品の輸入も大いに促進された。
1894年(明治27年)に廃棄された。

Wikipedia | 改税約書

これが締結されたことで貿易が長崎以外でも行われることとなり、経済に多少なりとも混乱が起きて、それがいわゆる討幕につながったと言えるのだろう。朝廷としては、それを朝廷自らが締結したものだとはしにくいために、幕府が無勅許で締結したのだ、と言う形式で明治前半はずっとやってきた、と言うことになるのではないか。

日墨修好通商条約

それが、明治27年以降に結ばれた諸条約によって正式な条約化し、それが明治末にいわゆる平等条約となっていったのではないだろうか。そこで、これらの満期を迎えるという諸条約のうち、最初期の日英と日米の条約について少し見てみたい。その前に、それに先立つ日墨修好通商条約について。

日墨修好通商条約(にちぼくしゅうこうつうしょうじょうやく)は、1888年(明治21年)11月30日に日本とメキシコの間で締結された条約。
日本にとっては初めての(アジア除く。治外法権が無く、関税自主権のある)平等条約であり、メキシコにとってはアジアの国と初めて締結した条約であった。
当時ワシントン在勤の日本全権陸奥宗光と、駐米メキシコ公使マティアス・ロメロとの間で調印された。李氏朝鮮とは逆不平等条約(日朝修好条規、日本が有利)を結んでおり、平等条約は清と結んでいる日清修好条規のみだった。
日本政府は治外法権(領事裁判権)、関税自主権の問題解決の足がかりとして、アジア以外の国の一つとまず対等な条約を結び、それを前例として欧米諸国と再交渉することを考えていた。日本政府が白羽の矢を立てたのは、意外にも鎖国以前にフィリピン総督を介して日本と外交実績のあるメキシコだった。ちょうどメキシコも、東アジアとの貿易のために日本または清国と交流を持ちたいと思っていた矢先のことだった。
この条約締結後、1891年(明治24年)に日墨両国公使を交換、メキシコ人への内地開放が認められた。1897年(明治30年)にはメキシコへの日本人移民が行われた。

Wikipedia | 日墨修好通商条約

これは、欧米間で結ばれているような条件の条約を一つも持たない状態で欧米諸国との条約交渉に臨むと言うリスクを避けるために、まずは一つ平等条約を、と言うことで結ばれたものだろう。このうち、問題となるのは領事裁判権で、外国人に対する犯罪を国内法で裁くことによって生じるリスクについてどう考えるのかということについて国内世論を確かめたい、と言うこともあったのではないだろうか。清との間の条約では双方共領事裁判権を認め合うと言う形で、他国民への犯罪行為は裁かないと言うことにして個人間の紛争が国家間のものに拡大しないように配慮していたのだと言える。それに対して、全く価値観の違う西洋人に対する犯罪を国内法で裁けないと言うことは、国民の不満につながる一方でそれが容易く戦争に結びつくと言うことが認識されているのか、と言う危惧もあったのではないだろうか。

大津事件

そこで発生したのが明治24(1891)年の大津事件だと言えるのではないか。

大津事件(おおつじけん)は、1891年(明治24年)5月11日に日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ (後の皇帝ニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現・大津市)で警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した暗殺未遂事件である。湖南事件(こなんじけん)とも呼ばれる。
当時の列強の一つであるロシア帝国の艦隊が神戸港にいる中で事件が発生し、まだ発展途上であった日本が武力報復されかねない緊迫した状況下で、行政の干渉を受けながらも司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めた近代日本法学史上重要な事件とされる。裁判で津田は死刑を免れ無期徒刑となったが収監の翌々月に死亡した。日本政府内では外務大臣・青木周蔵と内務大臣・西郷従道が引責辞任し、6月には司法大臣・山田顕義が病気を理由に辞任した。

Wikipedia | 大津事件

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