主義から共義へ 資本主義と情報共義

ismという言葉、それには限らないが、近代的な外来概念を日本語に翻訳したとき、考え方、というような意味を主義として訳したが、主義とは主たる義でありいわば主観的価値観だと言える。主観的価値観をベースにして社会の考え方を定めるというあり方自体に大きな問題があり、とは言っても価値相対主義の観点からはどの価値観も主観的であり、では一体どのように社会についての考え方を定めるべきだろうか。

ismとcracy

ここで、日本では民主主義となっているが、英語ではDemocracy、つまり大衆支配とでも訳すことのできる言葉がある。これは考え方、つまりDemoismではなく支配であり、大衆による支配のあり方を定めるための概念だと言える。つまり、英語では、ismの解決はcracyでしかできないのにも関わらず、日本語ではどちらも主義という言葉で表現し、すなわち主たる考え方によってなんとか決まるだろう、という天任せのような言語構造上の仕組みになっていると言える。それは、主たる考え方をぶつけ合って数の力で決めるという思考上の整理にならざるを得ず、それが現在の日本の経済社会、あるいは政治を支配している言語的な概念構造であると言えるのだろう。

垂直的関係と水平的関係

そもそもismをcracyでしか解決できない、という時点で、自由な考え方の上に支配がのしかかってきていることを意味し、それでも、それがゆえに支配者の決め方を定める選挙の仕組みなどについて考えることで、自由を得ようする、ということにつながっていると言えるが、資本主義と民主主義ではどちらも主義なので、主観的価値観のぶつけ合いとなり、そこから自由について考える、という経路は見えない。金の力か、数の力か、という単純な力関係で物事が決まるということになり、その意味でデジタル的な実験場にはもってこいのところとなる。金と情報を配合してかき混ぜてどうなるか、という実験を繰り返されて、国なるものについて考える機会も要素もなく、ただただ社会という実験室の中で弄ばれる実験動物となってゆくのだろう。

主義から共義へ

そこで私は、他の国の言葉、文化については知らないが、日本語固有の問題を解決するためには、主義の時代から共義の時代に移るべきなのではないかと考える。つまり、主観的な義をぶつけ合うのではなく、それを共有し、いかに共存できるかを模索する、という考え方だ。ここで難しいのは、ism-cracyの関係である英語に比べ、主義の並置である資本主義と民主主義が今いかなる状態で共存しているのか、ということ自体が解釈が多様に分かれる、ということがある。つまり、ismをcracyで解決するという状態ならばCapitalismの問題はDemocracyで解決しうるが、それが並置の時に、果たして資本主義は民主主義によって解決しうるのか、という問題が発生する。

資本の論理による侵食

資本主義と民主主義が並列ならば、その優劣は力比べとなり、だから他文化に比べて民主主義は資本に侵食されやすいという重大な欠陥を持っていると言える。そこにさらに法治主義という主義を横に並べたところで結果は同じで、力比べとなれば、法自体も資本に侵食され、いくら法による正義と言っても、その法自体が構造上資本優位に制定されやすいという性質を持っていれば、資本主義の優位はどんどん強化される。そして、法の枠外やそのギリギリのラインで資本が暗躍することで、現実の意志決定はどんどん資本の論理に従属してゆく。支配の技術は、そのギリギリのラインをいかに資本で埋め尽くすか、ということに絞られ、そしてそこの専有権を主張することで権力の源泉となってゆく。一旦権力の源泉を専有権の下に置くと、それをひっくり返すのは非常に困難になる。そこには利権がどんどん集中し、誰にも手のつけられない資本の権化が構築され、何もかもがそこに収斂されるようになってゆく。そこでさらに解釈の問題となれば、具体物である資本というものの強さは際立ってくるのだと言え、全てのものが資本を基準に解釈されがちになってゆくのだといえよう。

情報共義

私は、それが望ましい状態だとは決して思わないので、資本主義に変わる概念として情報共義という考えを提示したい。主義というのは主観的な考えなので、それを擦り合わせるために共義という概念を導入し、その媒介として情報をいかに用いるのか、ということを考える、というものだ。

資本主義のエンジン バリューチェーン

資本主義を動かしているベースとなっているのは、現在ではバリューチェーンと呼ばれる、関係性における利益の配分機能であると言える。主題はなんであれ、このバリューチェーンを通すと、その中で、その主題に対する目的合理性に基づくダイナミックな利益の争奪が活発に行われ、それによって利益配分が決まりながらインプットされた主題に対するアウトプットが出てくることになる。利益争奪によって生産性の上昇を図るという仕組みとしてはかなり洗練されたものになっていると言えるが、問題は、上記で指摘したように、その利益配分をコントロールするような機能は、並置的な主義からは生まれて来ず、むしろ民主主義にしろ法治主義にしろ資本主義に取り込まれてバリューチェーンの一部をなす、ということすら現実的になっている。すなわち、票の確保がバリューチェーン依存となり、そして規制はバリューチェーンの意図を汲むように構築される、と言った具合だ。

利益確保の意義

このようなあり方では、皆が常に利益確保のために走り続け、競争し続け、そして争奪戦を繰り広げ続けるという、私の主観で言えば、一体何が楽しいのかよくわからない、という状態が常態化する。一体、利益確保というのは人の幸せの主たる部分を構成するものなのだろうか。ここで、Democracyならば、民主的にそのような問題について考えるという余地もあるが、資本主義と並置される民主主義では、そのような問題提起や議論すらも資本に侵食され、それは儲かるのか、という鉄壁のバリケードによって疑問の余地なく利益至上主義の中に取り込まれてゆくことになる。

情報共義のあり方

ではいったいどのようにして主義と主義をフラットな形にして行けるのだろうか。ここで私は情報に注目したい。情報は個々人の”主義”に従って、その完全性の定義が異なっており、すなわち個別情報完全性定義が、個別の主義の具現化であるとも言えそうだ。つまり、ある人が利益にフォーカスして情報の完全性を定義すると、それは非常に資本主義的となり、法律にフォーカスすると法治主義的になる、と言った具合だ。そこまでメタな概念でなくとも、人はそれぞれ自分の関心を持っており、それに基づいてできる限り完全な情報を得たいと考えるものだと言えるのではないだろうか。主義のフラット化とは、誰もが自分の完全情報追求権を妨げられることなく、納得のいくまでそれを追い求めることができるようになることで、それをお互いに邪魔せず、むしろ相互にそれを助けあうというのが情報共義の考え方だ。これによって、それぞれが自分の考えを追求し、相互に邪魔をせず、わからないことなどがあれば議論し、対話によって情報の完全性をさらに強固にしてゆく、ということが可能になるのではないか。そうすることで、対話というのが社会の基本的なコミュニケーションのあり方となり、駆け引きや競争はその情報取得に対する非効率さから敬遠されるようになるのではないか。

鞘取りによる侵食を超えて

しかしながら、競争環境の中では、このような情報処理のあり方は常に鞘取りの対象となり、鞘取り圧力によって脳内認識が侵食される感覚を常に感じざるを得なくなる。それによって失われる脳内能力などのコストは軽くみることはできない。そんなことがあるので、何でもかんでもとにかく利益確保のために駆け引きや競争を行い、情報の鞘取りをし、相手に勝つ、ということが目的となった社会はとにかく刺々しいものとなる。そうならないように、共義、お互いの義、考え方を尊重して両立するようにしてゆくことこそ、社会から摩擦をなくし、個々人の満足を上げてゆくことにつながるのではないか。

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