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【ニクソン・ショックを探る】周恩来と毛沢東

次に中国側の事情に移ってみたい。

周恩来と日本

まず、ニクソンのカウンターパートとなった周恩来についてみてみたい。1898年生まれの周は、壬子癸丑学制が発布された1912年に開校されたばかりの天津の南開中学に開校翌年の13年に入学し、17年に卒業した。卒業年が1年合わないので、編入のような形だったのかもしれない。それはともかく、南開中学は厳修によって始められた学校で、奨学金まで準備されていたといい、それを使って周は1917年に日本に留学しているとされる。それはちょうど第一次世界大戦が終わった年であり、おりしも中国では、二十一か条の要求への対応をめぐって軍閥間で争いが起きており、17年は西原借款が段祺瑞政権に対して行われた年であった。つまり、実際には留学資金は西原借款から出ていた可能性もあり、その翌年18年に留学生の一斉帰国運動が起きたというのは、その金の使い方について争いがあり、それが段祺瑞が主張したという南征の問題と絡んで顕在化し、もしかしたら帰国をせざるを得ない状態になったのかもしれない。というのは、もし厳修からの奨学金であれば帰国を強いられるということもないだろうから、もう少し政治的に難しい資金であった可能性があるからだ。いずれにせよ、周は一旦帰国した後、再び来日しているという。翌19年には母校の天津南開学校に大学部ができるということで、帰国し南開大学に入学する。入学直後の5月には、ヴェルサイユ条約に反対する動きとして五・四運動が起きた。 周は学生運動に参加したとされるが、おそらく学生運動も一枚岩ではなかったと考えられ、もう少し複雑な状況があったと思われるが、ここではそこまで深入りできない。

欧州との関わり

翌1920年にフランスのパリに留学し、労働党の研究のためにイギリスエディンバラ大学に入学を許可されるが、中国政府からの奨学金が下りずに断念してフランスに戻り、24年に帰国し、共産主義者として活動したとされる。しかし、そもそも五・四運動自体が、反ヴェルサイユ条約の動きであり、その条約を主導した国の一つであるフランスに留学、というのはどうもすっきりしない。戦後すぐのフランスは政治的にも安定しておらず、それほどの魅力があったとも思えない。そしてその後に周が特に西ヨーロッパと強いつながりを持っていたような感じも受けない。奨学金の話が出てくるのは、先ほどの日本への留学生の話であり、ここでの周の話とは関係ないだろう。
他の研究(日本における周恩来の遺跡の一考察)を見ると、イギリス、ドイツに留学してモスクワ経由で帰国ともあるので、周恩来との関わりを欲しているヨーロッパの国は多くありそうだが、おそらくどれも事実ではないのではないか、という気がする。もし繋がりがあるのならば、西側との国交回復は、早かったイギリスは別としても、他の形でなされた可能性が高いのではないかと思われるからだ。そして実際に周とヨーロッパ諸国に繋がりがあれば、毛沢東の共産党路線で中国の歴史が推移することもなかったのではないか。それは、イギリス留学経験のあるネルー率いるインドが社会主義を標榜しながらも共和制を志向して純然たる共産主義に走らなかったことと好対照を成していると言える。共産主義はまだできたばかりで、制度論などについて少しでも勉強すれば、共産主義では革命の先の絵が描けていない、ということはすぐにわかり、共産主義者の勢いのようなものに押し切られることのないような理論武装はできたはずだからだ。
フランスの方が共産主義という意味では進んでおり、しかしながら先に国交を結んだのはイギリスで、その辺りの説明のためにこの辺りの留学の話が作られた感じがする。つまり、どちらも実際にはなされていないが、周恩来とのつながりをなんとか捻り出すために作られた話ではないか、と考えられる。そういったことを考えると、実際にはその時期は、周はおそらく中国にもヨーロッパにもおらず、だから日本に戻っていたのではないかとも考えられる。或いは、共産主義の国というのならばソ連に行っていた可能性もある。ただ、周恩来が本当に最初から共産党だったのか、ということも疑わしいと感じているので、やはりもう少し中立的な日本にきていた可能性が高いのではないかと思われる。そして周恩来の戦後の中国における主導的地位を考えれば、この時期から余程大きな存在感を示していたと思われるが、それがなんなのか、よくわからない。そして、そこまで西欧諸国が周恩来とのつながりを求めるには、余程の理由があるのではないだろうか。

ホー・チ・ミン

なお、ちょうどその時期フランスにいたのが、のちにベトナム共産党を設立するホー・チ・ミンであり、彼がフランス社会党、あるいは共産主義とある程度の関わりがあったのは事実であろうから、そのあたりで意図的に混同がなされた可能性がある。そして、ホー・チ・ミンの場合はフランス領インドシナの出身ということで、フランスに行くべき理由は十分にある。ただし、ホー・チ・ミンはコミンテルン系の世界同時革命論者ではなく、民族主義を重視したスターリン寄りの共産主義者であった。そのあたりにも、北ベトナムがフランス、そしてアメリカから集中的に狙い撃ちされた理由があるのかもしれない。世界同時革命論は植民地主義と相性が良いが、一国共産主義論は民族主義、そして反植民地主義と結びつきやすいからだ。共産主義の見方としてその二つの違いを理解しておかないと、なぜニクソンが突然反共から容共に変わったのかが理解しにくくなる。彼は要するに植民地主義的世界同時革命論に近い思想を持っており、それによってアメリカの勢力を広げる、ということが主たる関心事項だったと考えるべきなのだろう。

毛沢東

では、もう一方の毛沢東の戦前の動きも追ってみたい。毛は、1893年12月26日(光緒19年11月19日)に清の湖南省湘潭県韶山沖生まれで、一代で地主に成り上がった父を持つ、新興ブルジョワジーと言える。

毛の作られた経歴

実際に毛沢東が歴史の表舞台に出てくるのは、1921年7月23日の第1回中国共産党全国代表大会への出席で、その後23年6月、第3回党大会で中央執行委員会の委員5人のうちの1人に選ばれたという。この第3回党大会で、コミンテルンの指導の下、「国共合作」の方針が決議された。9月、毛は、共産党中央執行委員会の指示と国民党の委託を受けて長沙に赴き、国民党の湖南支部を組織した。これが公式の話であるが、21年の共産党全国代表大会というのは、まともな記録もなく、その参加者のうち中華人民共和国建国後まで生き残ったのが毛と後一人だけだったということで、その大会が実際にあったかというのは非常に怪しい。
そこで、21年に他に何があったかというのを見てみたい。まず、この年は、「中華民国政府」ができ、孫文が中華民国非常大総統に就任した年であると言うこと。そして、それとは別行動をとっていた蔣介石が、最初の妻であり後継蔣経国の母である毛福梅と離婚した年であるということがある。これを考えると、中国共産党の設立とは、まず、清の後継としてより正統性の強い孫文の中華民国設立にあわせることで、その流れを受け継ぐ一方で、その中華民国の中心的存在であった蔣介石にあやかるために、その最初の妻である毛氏と姓が同じ毛沢東という人物を引き上げて、その正統性にそれらしさを付け加えるためにその息子の蒋経国に繋げることで、毛沢東という人物像はおそらく後になってから作られた話ではないだろうか。
では、その話が作られた時期は一体いつかということだが、まず、毛は1923年いわゆる国共合作の年に 第1回中国国民党全国代表大会に出席しており、国共合作とは、実際には毛沢東の国民党加入の年であったと考えられる。しかしながら、27年4月12日に上海クーデターが起こり、国共合作は崩壊した。その直後の4月27日から5月10日にかけて開催された第5回党大会で毛は中央委員会候補委員に選出された。つまり、この辺りで毛沢東をそれらしく飾り立てる必要が出てきたことになる。

上海クーデターとソ連共産党

そこで、もう少しその辺りの事情を見てみると、この上海クーデターとは、共産党系の左派による国民党乗っ取りと、それに対する蔣介石の反撃であると考えることができ、これによってはじめて国民党と共産党が分かれたと考えられそう。それに先だって1925年に孫文が亡くなり、その年の秋にモスクワのソ連共産党トロツキー派が、孫文の名声を用いて中国を取り込もうとしたモスクワ中山大学が設立され、 学長にはトロツキー派の主要メンバーであったカール・ラデックが、そして副学長にはパーベル・ミフが選ばれた。ラデックは上海クーデターが起きた27年にスターリンによって追放され、37年に死刑となるミフは、中国共産党とも深く関わったが、結局中国共産党からもその影響が排除されているという。それは、後に走資派として否定されることとなる李立三の路線を否定して国際コースを進めたためだとされる。
李立三は、渡仏した時に彼が働いていた職場の上司が共産党員で、それにしたがって共産党に感化されたら、21年にフランスを追放になったとされている。一方で、フランスにいた同じ21年に中国共産党の創立メンバーともなったとされ、つまり第一回の中国共産党大会とは、この李立三の共産主義との出会いのことを言っているのかもしれず、その意味ではフランスで開かれたと言えるのかもしれず、またその話があるからその時期に周恩来がフランスにいたことになっているのかもしれない。その辺り、中国共産党が結成されたというよりも、李立三やホー・チ・ミンらのアジア出身者が共産主義について意気投合した、という話だったのかもしれない。いずれにしても、李はかなり現場主義的な筋金入りの共産主義者で、そのためにコミンテルンやそれに従う中国共産党からも冷遇されたようだ。これらのことを考えると、ミフが世界同時革命論者で、李立三がスターリン系であった可能性が高く、だからモスクワ中山大学はトロツキー派の拠点であったとみるべきだろう。

蒋経国

そのモスクワ中山大学に国民党からも蔣経国をはじめとして幹部子弟が多く留学することになった。蔣経国の留学希望に対し、蔣介石は国民党への入党を条件としてそれを認めた。しかし、まさにその蔣経国の身柄を巡って、この大学がソ連共産党内の内紛の舞台となってゆく。ラデックが学長を解任されたのは上海クーデター直後の5月であり、クーデターを主導したミハイル・ボロディンとのつながり、そしてボロディンを用いた中国国民党への共産党浸透を画策していた疑いが強い。
さて、その上海クーデターに対して、依然としてモスクワ中山大学に留学中の蔣経国は、父・蔣介石に対する絶縁状をたたきつけ、その蔣経国の声明文はタス通信を通じて全世界に配信されたとされる。しかし、どうもタス通信自体、 妻がトロツキストとして強制収容所に送られたミハイル・カリーニンが議長を務めていたソビエト連邦中央執行委員会によって設立され、のちにはボロディンが副局長を務めることになるということで、トロツキー派の牙城になっていたようで、その内容は信用に値しない。つまり、この配信は、蒋介石と蒋経国との関係にヒビを入れ、中国国内を混乱させようとしたコミンテルンの策略である可能性がある。
このように、コミンテルンの人質となったような蔣経国は大学卒業後も帰国することが出来ず、 それに対して、おそらく蒋経国に同情的であっただろうスターリン自身がモスクワ中山大学を訪れ、学生たちにトロツキー派の「誤謬」を正す一幕もあったという。それがあったためか、中国共産党モスクワ支部はトロツキー派を反動だとと決め、27年12月にはラデックがソ連共産党第15回大会で除名され、シベリア送りとなった。これによってようやく蔣経国はトロツキー派からの離脱を公にできることとなったようだ。だが、それにもかかわらず、中国共産党モスクワ支部はあくまで蔣経国をモスクワから追放することにこだわり続け、結局31年11月、経国はモスクワ郊外の貧しいシコフ村に送られることになった。もちろん、追放というよりも、権力闘争に嫌気がさした経国自身が現場での経験を望んだのかもしれない。いずれにしても、このような蒋経国に関わる事情もあって、その母親の姓である毛を名乗る毛沢東の存在価値が上がっていったとも考えられそう。

毛沢東の活躍?

さて、その毛沢東は、井崗山を最初の革命根拠地として選び、29年から31年にかけて、湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に農村根拠地を拡大し、地主・富農の土地・財産を没収して貧しい農民に分配するという「土地革命」を実施していったとされる。毛沢東は江西省瑞金に建設された中央革命根拠地である「江西ソビエト」に移り、31年11月、瑞金を首都とする「中華ソビエト共和国臨時中央政府」の樹立を宣言してその主席となったという。ちなみに、これに先だって9月には柳条溝事件によって満州事変が始まっている。そして、共産党はその後日中戦争を通じて日本軍との戦いをほぼ国民党任せにして、戦後になってから、満州が降伏し、その武力を手に入れることで急に存在感を増している。つまり、戦時中の共産党の存在というのは非常に影が薄く、だからこれらの話は、満州事変のどさくさ紛れに作り出された話であるかもしれず、実際のところは、満州国の実態も含めて更なる検証が必要となる。

これが、中国の両雄の、日中戦争に入るまでの、主として共産党設立とされる時期における活動となる。ここから先は日中戦争となって、さっと追えるような話ではなくなってくるので、戦後まで一気に飛びたい。

*何回推敲しても、ここまでの文章では読んでも全然スッキリせずに、うまく書けていないが、それはその後の中華人民共和国の成立、そしてその中での共産党の位置付け、というのがずっとスッキリせず、まだうまく消化できていないためだと言えそう。ここまでまとめられなかったのもそのためだが、わかったことだけでも書いてゆかないと、いつまでたっても前に進まないので、とりあえず公開してゆくことに決めた。お見苦しい点、ご容赦ください。


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