認識の社会実装

社会と個人との関係性を、個々人の考えを擦り合わせた結果できた制度が社会であると考えると、新たな考えをいかに社会に実装するのか、というプロセスが繰り返されて社会が動いてゆくのだと言えるのかもしれない。つまり、社会制度とは認識の社会実装の結果現れる抽象構造だと言えるのかもしれない。

認識の社会実装サイクルモデル

そうなると、社会的に解析する個人のモチベーション様式、それが一般的かどうかはともかくとして、モデル様式化すれば、知覚ー解釈ー認識拡張ー社会実装というサイクルであると言えるのかもしれない。これはこうすべきとかそういったものではなく、多少なりともそういう側面は抽出できるかもしれない、ということであり、しかもそのサイクルのペースは人それぞれであるし、またやり方もそれぞれで、にもかかわらず、個人の社会との関わりをモデル化すればそうなるかもしれないので、それをできるだけ摩擦を少なく実現できるようなあり方を考えること自体にそれなりの意味があるのではないかと考えるところである。

認識の社会実装プロセス

これをもう少し詳しく見てみると、まず、人はそれぞれ固有の認識体系を持っており、それを充実させることに動機付けされるのだと考えてみる。それは、経済学的に言えば、完全情報への欲求とでも言えるものであり、そしてまた情報の側面で見れば多面的情報ユニットを拡張する動きであるとも言えそうだ。この動機に基づき、人は自然、あるいは社会環境から情報を取得し、それを知覚することになる。
知覚された情報は必要に応じて記憶、蓄積され、そして蓄積されたさまざまな情報を統合・分析して解釈を行う。解釈は認識体系の一部を補完してゆくことにより、その拡張につながり、その新認識を誰かとシェアすることによって社会化する、つまり社会実装を行なって、自分がこういう認識を持っているということを社会に知らしめようとする、というのが、認識体系の内的充実と外的拡張を行うという動機のもとに行われる認識の社会実装のプロセスだと言えそう。

完全競争とゲーム理論のもたらす過酷な世界

ここで、認識体系の内的充実と外的拡張の接続部分が社会との接触部分であり、そこに表現、そして対話が生まれることになる。そこが滑らかに機能することが、認識の社会実装の促進につながるのだと言えそうだが、実際にはそこが非常に難しいことになっている。というのは、特に経済学において完全情報とそれに基づく完全競争を規定して市場メカニズムが動くとしているために、この完全情報への動機というのは、経済学的には既に前提となっており、織り込まれているので、社会実装部分が前提となったまま完全競争を行わなければならないという、なんとも非現実的な上に対話とは相容れない無駄な競争を強いられる理論となっているのだ。そして対人接触の部分については、ゲーム理論によって、こちらは不完全情報下での駆け引きによる利益極大化が定義されている。完全情報で競争しながら不完全情報で駆け引きをして利益を引き出すというのが経済学的な市場メカニズムの機能の仕方であり、それは非常に過酷な認識の社会実装のあり方であると言える。

平和的社会実装

そこをもっと平和的に実装できるようにし、相互の認識拡張が活発に行われるようになれば、社会全体の認識も広がり多様化する。そして個々人の認識拡張の欲求も満たされるようになって、社会自体の安定度も増すのだと考えられる。この社会実装の平和的実現のためには、競争と駆け引きではなく、表現と対話によるコミュニケーションを主体とするように変えてゆく必要がある。

市場の動学的多数間マッチング・多面的均衡モデル

それには、理論的には、完全情報による完全競争という考えを放棄し、それぞれが完全情報を求める中で市場において情報交換が行われ、そこで対話による補完関係が随時成立するという、動学的多数間マッチングモデルで、しかも個々人の需要、つまり認識充実・拡張の方向性も一つではなく複数で、それを、もし予算制約が必要ならば無差別曲線に従って複数の方向へ伸ばし、その範囲でマッチングしたものと取引に至る、という多面的均衡モデルが必要になるのではないだろうか。

数学的表現の難しさ

これを単一座標軸で表すのは至難の業で、なおかつ時空も一致していないことが多いだろうから、これを数学的な座標軸イメージで考えるのは至難の業ではないかと考えられる。だから、経済学的にはその結果だけを取り出して取引の成立した価格と数量によって座標軸上にそれを表現して分析するという手法がとられるのは仕方のないことだと言えるのかもしれない。

数学的故に非効率化する市場

このように、この接触部分について数学的表現が難しいために、それだからこそ個々人の自由な表現と率直な対話が必要となるのにもかかわらず、そこにさらにゲーム理論による駆け引きを被せてしまうので、自由な表現自体が駆け引きの一部と見做されるという非常に不幸な状態になってゆく。そのために、裏の裏を読み続けるという、効率性を求めたはずの市場の考えとは全く相反する事態が常態化することになるのだ。

こうして考えると、経済学は究極的には人文学の考えを入れ込まないと成立し得ない学問であると言える。そこの部分を考えるためにも、認識の社会実装の考えが重要になってくるのであろう。

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