続・広島から顧みる歴史、広島から臨む未来(5)

地方自治の推移1

前回郡区町村編制法のところまで見たが、そこからは自由民権運動が急速に活発化する。その点で、自由民権運動とは、近代化に伴い中央集権によって国家を動かしてゆこうという流れに対して、地方ごとの自治を重視して民権を強化しようという、ある意味で地方分権運動であったとも言えるのかもしれない。

自由民権運動と小田県

自由民権運動の始まりは、明治7年1月の板垣退助、後藤象二郎、小室信夫による『民撰議院設立建白書』を嚆矢とするのではないかと考えられるが、それは、小田県の統治と深く関わっているのではないかと感じられる。小田県では、まず明治5年10月15日に広島県とは異なり公選であった戸長の代表者からなる民会が成立していた。これは、明治7年8月に布達された小田県総代会議につながるが、大区長による会議を経て岡山県に移管され、明治9年2月ごろに一旦休止されるまで継続的に続いたようだ。

地方官会議と臨時民選議院

一方で、明治7年の5月に地方官会議開催の詔勅が出され、同年9月に東京で地方官会議が開催されることが公布された。明治7年6月27日には窪田次郎ら五人により『民選議員ノ儀ニ付願書』が提出され、7月5日には窪田がさらに『奉二矢野権令一書』を提出し、臨時民選議院設立法を要求し、地方官会議について、権令に対して民選の県会を開き県民の名代人として出席することを求める要求書が窪田と坂田丈平によって提出された。その月には県が任命した区長副区長が設置され、それを受けて8月2日から10日にかけて各大区で大区会議が、そして16日から25日にかけて笠岡の地福寺で臨時の民選議院が開催されたが、そのわずか二週間後の9月8日には当初は継続的に開催されるともくろまれていたかもしれないそれが廃止となってしまった。ただ、地方官会議も公布された日程では開催できずに延期となったところを見ると、この動きはかなりのインパクトを持っていたと考えられる。

蛙鳴群の結成から第一回地方官会議開催

12月初旬、窪田が中心となってまとめられた学習結社である蛙鳴群の規約ともいうべき『小田県蛙鳴群規約并題辞』が区長宛に出された。この蛙鳴群は、月1回の勉強会を開催することなどを規約に定めていた。明けて明治8年4月に立憲政体漸立の詔が出され、5月に第一回地方官会議の第三議題として「地方民会の事」が掲げられたことで地方分権に弾みがつき、6月20日から7月17日にかけて実際に第一回地方官会議が開催された(日付には異同があるので仮にWikipediaの物を採用した)。蛙鳴群は、明治8年6月21日には備中東大島村で30人が集会を開き、その前日からようやく開かれるようになった地方官会議について議論が交わされた。この地方官会議では、傍聴人が許可されたことが期待を集めたが、結局その傍聴人自体が官選となり、期待は一気に萎んだ。この結果、明治8年10月にある程度の区と町村の団体性を認めた『各区町村金穀公借共有物取扱土木起功規則』が公布されたのを受け、窪田が蛙鳴群の事実上の解散を宣言して、小田県での自由民権運動は幕を閉じた。新政府の側では、これでようやく地租改正に本格的に取り組む基盤ができたのだと言えそう。地方自治体が誰のものなのかわからなければ税金を納めようという気にもならないだろうからだ。

広島県人事

この動きと連動するかのように、広島県では人事が動き、明治8年2月1日に権令伊達宗興が依願免官となり、15日に山口県士族で前敦賀権令の藤井勉三が新権令となり、8月8日には権参事白浜貫礼が参事に昇格したが翌明治9年1月には死去し2月14日に権大属平山靖彦が権参事に昇格し、2月29日は藤井が県令に昇格した。

小田県の合併・解体

その間明治8年11月30日には県治条例が廃止され、かわりに府県職制並事務章程が公布され、府県の力が少し強化された。その直後、小田県は12月10日に廃県となり、岡山県に合併されることとなった。この章程は明治9(1876)年2月から翌10年1月にかけて部分的な修正が行われ、官職が増えるなど、徐々に府県の力が強化されていったのがわかる。それに伴い、同年4月18日には元の小田県のうち備後6郡が広島県へ移管された。府と県が同格となったことで、府県を中心とした地方自治の方向が確定したのだと考えられそう。

岡山県の地方自治への見えない壁

それを示すかのように、5月25日に区村会を農会とも心得べきものとした異色の「区村会議仮心得」が出た岡山県で、7月7日には小田県や北条県に2年も遅れてようやく「町村会仮規則」、「区会仮規則」、「県会仮規則」が布達され、民選の議会が動き出した。この『岡山県史』の記述が正しいのならば、自由民権運動は備中や美作で先行し、その後になり両地域が合併されてから岡山での民選議会設立となったことになる。なお、その隣の兵庫県では昭和55(1980)年発行の『兵庫県史』には、幕末維新までしか記述されておらず自由民権運動についての記述はなく、その前の昭和42(1967)年発行の『兵庫県百年史』に県成立後が記述されていて、その中に自由民権運動について記載があるが、そこから地方の民選議会への接続の様子は書かれておらず、いきなり国会開設へと飛んでいる。どうも、地方自治の動きについては備前岡山あたりを区切りにして大きな分断があったようにも感じられる。広島県ではその後明治9年12月25日に国泰寺境内にあった県庁が失火のため全焼している。これによって小田県の廃止や備後6郡広島編入についての資料が少なからず失われたのかもしれない。
明けた明治10年には1月29日から西南戦争が始まっている。9ヶ月にわたるこの争いは、この地方自治に関する激論を考えると、本当に薩摩で行われたのか、ということも十分に疑うべき理由がありそう。各地史に残る情報を精査し、実相を探る必要がありそうだ。

(推測)地方官会議の実際

ここで何があったのかの個人的推測だが、地方官会議に対する蛙鳴群の集会が備中東大島村で開かれたことを考えると、東京で開かれたという地方官会議というのは、実は岡山あたりで開かれたのではないだろうか。つまり、この時点で、東京とは岡山のことであった可能性があるのではないだろうか。全国からの地方官招集というのは、本来的には各地での自由民権運動の動きを追わないとなんとも言えないが、おそらく今の中国地方の範囲くらいが精々だったのではないだろうか。地方官会議後の小田県や北条県の岡山への合併や、広島での人事の慌ただしさ、その後の旧小田県の分割にその辺りの事情が隠されていそうだが、今の所はそこまでは追えない。東京のスケール感がそれくらいだったとしたら、ますます薩摩での戦争というのは考えにくそう。

地方自治黎明期に隠された秘密

全体として、この話の流れは綺麗にまとまり過ぎているので、おそらくもっと様々なことがあったのだろうと考えられる。特に、小田県や北条県という名前を考えると、歴史問題についてかなりの議論があったか、県名について後から上書きされ、それによって記憶の改変が図られたかといった可能性が考えられる。ここでの議論の結果として明治維新に至るまでの基本的な史観が定められたと言えるのではないだろうか。そして、この広島や岡山における地租改正と自由民権運動との関わりが、その後コピーされるかのように各地に広がっていったのではないかと想像され、それによって新政府の史観も全国に広まっていったのではないかと考えられる。

三新法と自由民権運動

さて、明治11年7月22日には『郡区町村編制法』、『府県会規則』、『地方税規則』のいわゆる三新法が公布され、25日には府県職制並事務章程が廃止され、府県官職制が制定された。広島県においては同年11月1日に三新法の施行布達と同時に府県官職制の制定も県内に達し、郡区庁の事務分課を定めることで、郡区が県の下にあることを明らかにしたと言える。同じく11月1日『地方税施行順序』が公布され、明けて明治12年1月22日には地方税の徴収が始まった。また、それに先立って1月7日には『県会議員選挙規則』が公布され、2月27日の広島区での選挙会など、広島各地の郡区役所で県民議員選挙会が開かれた。選挙についての情報は残っていないということで、この日程などがどこまで事実を反映しているのかはわからないが、この日程が確かならば、「代表無くして課税なし」という原則がかなり強く地方自治を支持していたと見ることができそう。これも、上述のような、そこに至るまでの自由民権運動の動きの中で勝ち得た物であろうと考えられ、西南戦争を挟んだ空白期間も含めてもっと様々な動きがあったのだろうと想像できる。

愛知県の自由民権運動

一方で、自由民権運動自体については、この空白期間のあたりから、東海地方に多くの情報が残されている。そこで愛知県における地方自治の動きを見てみると、こちらでは三新法の制定に先立って明治10(1877)年11月2日に愛知県町村会議員仮選挙法、そして同町村会仮章程が定められ、同5日には県治会議仮章程及び区吏員会議仮章程が公布され、広島と同じく明治12(1879)年5月には通常県会が開会されたという。しかし、『郡区町村編制法』に先立って町村会議員仮選挙法が定められるというのはどうにも引っかかる。広島では府県が先行して地方自治の中心的存在になっていったのに、愛知県では町村が先行するという、全国一律的な手法を好む新政府らしからぬ手法であり、愛知県が独自にその手法を取るという理由も見出し難い。

民権政社の結成

自由民権運動の動きでは、まず明治11(1878)年に、宮本千萬樹が覊立社を名古屋に、翌明治12(1879)年3月内藤魯一が交親社を重原に、さらに翌明治13(1880)年7月には村松愛蔵が田原に恒心社を興し、活発に自由民権運動が展開されたことになっている。しかし覊立社はすぐに姿を消したと言い、村松についてはロシア語を学んだことと自由民権運動とのつながりがよく見えてこないので、実質的には内藤の交親社だけが実態を持って活動していたと考えられるのではないか。重原というのは、もともと福島藩が領地変えで重原にきて名を変えて成立したことから始まっている。内藤魯一は福島藩家老の家に生まれ重原では藩大参事として藩政改革に取り組んだという。

福島藩はどこか

広島には福島正則が入っていたということで、もしかしたら福島藩という名も併用されていたのでは、という推測は別ですでにした。そして、上述のように東京が岡山であったと考えると、現在の福島県と福島藩の位置を同一視するのはかなり難しいということが言えそう。そこで、福島藩の藩主である板倉家を見ると、備中国に備中松山藩と庭瀬藩という二つの板倉家の入った藩があった。それを考えると、内藤魯一というのはこの板倉家のどちらかに属していた、あるいは内藤が活躍していたところに板倉家が入ってきて、もともと藩があったのだ、という話を上で作り上げたという可能性が考えられそう。福島藩家老というのは、話を福島正則のところまで戻したら折り合うが、それより後のことはわからない、という意味でいっていたのかもしれない。その頑固さに対して、よその全く関係のないところで福島藩というのを作り出し、内藤の話も移し替えようとしたのかもしれない。重原のそばには挙母、福島のそばには平や湯長谷といった内藤氏と関わりのある藩があるというのも気になる。

内藤魯一の活動場所は?

いずれにしても、この時期に今の愛知県にまで自由民権運動の動きがきていたか、というと大きな疑問が残り、そして内藤氏が大内氏以来中国地方と深い関わりがあることを考えると、内藤魯一も愛知県ではなく、備中をはじめとした中国地方のどこかで活動していた可能性が高いのではないかと考えられる。

旧広島県と旧小田県の地域間対立

一方、広島では、明治12年4月には5月1日から県会が開会されることが布告され、情報伝達に不手際がありながら、予定通り5月1日には県議会が開会されたという。この第一回県議会は比較的平穏に終わったようだが、11月の臨時県会が『地租改正費徴収案』をめぐって紛糾したという。もともと旧小田県の備後6郡では地租改正は小田県の段階で終わっており、費用もすでに納めていた。しかしながら、この臨時県会で広島側の地租改正の費用負担も求められ、旧小田県側が反発したのだ。一方で翌明治13年4月には区長村会法が公布され、選挙が区町村にも展開される準備ができた。ここで町の力が強くなったのを受けて、6月の通常県会で、三次町立病院設置問題と福山中学校廃止問題が提起され、旧広島県と旧小田県との間の対立がさらに深まった。第一回の県会で設置の決まった福山中学校が焼失しそのために廃止が提案されたのだ。福山は当時まだ町ではなく、一方山間部でありながら三次は町であったということから、予算の優先配分がなされたのだと考えられるのかもしれない。これは旧藩主間の勢力権争いがあったとも考えられ、備後地方でありながら、今でも三次はもともと広島支藩の三次藩があったということで浅野氏ゆかりの寺院などが目立つ。これによって6議員が離席、帰郷届、そして辞表の送付に至ったが、それに対して県会は調査委員によって深津郡出身の石井議長のポストを奪い、6議員に対しては、以後4年間議員となることができない退職者と決議した。これは、旧小田県側が自由民権運動が活発だったから、ということで意図的に締め上げられた可能性もありそう。実際、旧小田県側の方が少数だが弁が立つということで、もとより対立の火種があったようだ。そして、その対応も、旧小田県側ではそれを民権の侵害という観点で取り上げて議論に臨んだともみえる、と『福山市史』は指摘する。

府県会の活動

さて、県会の動向を最も端的に示すのが、予算とその徴収状況、そして内務卿や県令への建議の内容であると言える。まず予算の方では、初期議会では毎年原案から減額の上で決議がなされている。歳出規模を膨らませがちな県の役所からの原案に対して、議会で住民負担の軽減が図られるというのが常態であったと言えそう。これは、地租割、戸数割が毎年大幅減額の一方で、営業税、雑種勢が毎年増額されており、県会議員を輩出する地主層の負担軽減と商工業社の負担増で調整されていると言えそう。一方で、建議については、地方行財政の改変を含む要求が多く出されたが、明治16年を期にその数を減らし、質的な変化も起こった。それは、明治15年あたりから、府県会の動向に恐れをなした中央政府が、府県会による建議に次々と制限をかけたからだと言える。

民権政社の動き

明治12年から13年にかけては、自由民権運動が全国的に高揚した時期で、一方で県会から国会への展望が言われ、もう一方では「立志社」、「愛国社」、「国会期成同盟」といった民権政社の影響が広がったとされ、12年中頃には結局明治14年10月の明治14年の政変で参議大隈重信が追放され、明治23年の国会開設が約束された。これによって今度は政党の結成が盛んになり、広島では明治15年3月に山田十畝を中心に芸陽自由党、同じく7月に小鷹狩元凱、藤田高之らの提唱によって芸備立憲改進党が結成されたという。このような活発な動きに対し、同年6月には集会条例が改正され、政党の地方支部設置が禁止されたことで中央政党との関わりが絶たれ、そしてその中央政党自体が回答、活動停止すると、県内政党も活動休止に追い込まれ、その後県内政党が活動再開するのは帝国憲法が発布され、帝国議会が開設される頃まで待たなければならない。
備後地方では、しばらく間をおいて、明治21年には備後十四郡有志懇親会が結成され、それを母体としたと思われる民有倶楽部が11月に結成され、翌22年3月には備後倶楽部に発展した。

広島に見る地方自治

市町村制が導入される前の地方自治の動きを、広島を中心に見るとこのようになる。愛知県を見ると、広島における空白期間に、私議憲法であったり、過激派による事件が頻発したり、という記録が残っているが、それが本当に愛知県のものなのかということがどうにもまだ整理がつかないので、とりあえずはここまでにしておく。

『広島県史』、『愛知県史』、『岡山県史』、『兵庫県史』、『兵庫県百年史』、『福山市史』等参照
なお、現在の県境を挟んだ県が自由民権運動の中心となっていたということで、内容自体各県史、市史によってばらつきがある。そして読み手の基本的な知識不足もあり、きちんと読み取れていないところもかなりあると思われる。自由民権運動黎明期の動きについてはさらに様々な視点から解明されることを期待したい。

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